昌平君「熊啓」説

 秦の始皇帝に仕え、後に楚王となった昌平君の事跡はたいしたことは分かっていません。そもそも「昌平君」というのも封号であって、本名も知られていないのです。まずは司馬遷史記』秦始皇本紀第六の記述から見ていきます。
「(九年四月)長信侯毐作亂而覺,矯王御璽及太后璽以發縣卒及衞卒、官騎、戎翟君公、舍人,將欲攻蘄年宮為亂。王知之,令相國、昌平君、昌文君發卒攻毐。」
 昌平君は呂不韋や昌文君らとともに嫪毐の乱鎮圧に出兵します(前238年)。
「(二十一年)新鄭反。昌平君徙於郢。」
 なぜか新鄭の乱のときに、昌平君は楚の都の郢に亡命しています(前226年)。
「二十三年,秦王復召王翦,彊起之,使將擊荊。取陳以南至平輿,虜荊王。秦王游至郢陳。荊將項燕立昌平君為荊王,反秦於淮南。」
 秦の王翦が楚を討って楚王負芻を捕らえると、楚将の項燕(ご存じ項羽の祖父さんです)が昌平君を擁立して淮南で秦に対する抵抗を続けます(前224年)。
「二十四年,王翦、蒙武攻荊,破荊軍,昌平君死,項燕遂自殺。」
 秦将の王翦と蒙武が楚軍を破ると、昌平君は死に、項燕は自殺してしまうのです(前223年)。

 これだけなら、なぜ昌平君が秦から楚に移り、項燕に立てられることになったのか、さっぱり分かりませんが、司馬貞『史記索隠』を見ると、事情が少しだけクリアになります。
「昌平君,楚之公子,立以為相,後徙於郢,項燕立為荊王,史失其名。昌文君名亦不知也。」
 昌平君は楚の公子の出自で、秦の相となったが、後に郢に移って、項燕により楚王に立てられたと言っています。
「按,楚捍有母弟猶,猶有庶兄負芻及昌平君,是楚君完非無子,而上文云考烈王無子,誤也。」
 昌平君は楚の考烈王の子であり、楚王負芻とは兄弟であるというのです。

 確度はともかく、だいたい分かっているのは、ここまでなんですよね。そこで今日の本題の李開元説です。ちなみに李開元氏は岡山の就実大学の教授さんなので、日本とも縁のある人です。

輔佐秦始皇統一天下的丞相是誰?(李開元的博客)
http://likaiyuanbk.blog.163.com/blog/static/127027590201011804947874/
《秦始皇的秘密》試讀:銅戈的秘密
https://book.douban.com/reading/10687339/

 1982年に発見された「十七年丞相啓状戈」という秦代の銅戈があるのですが、その銘文中の「丞相啓」が昌平君だと李開元氏は主張されているんですね。な、なんだってー!李開元説が正しければ、楚の王室の姓は芈、氏は熊なので、昌平君の氏名は「熊啓」と呼ぶべきことになります。
 このほかにも李開元氏は、昌平君が考烈王の咸陽人質時代の前271年生まれであるとか、嫪毐の乱のときに御史大夫であったとか、独自の主張をなさっております。