春申君の5人の子

『戦国策』楚策4の「楚考烈王無子」の章で、朱英が春申君に説く発言に「君相楚二十餘年矣,雖名為相國,實楚王也,五子皆相諸侯」という部分があります。この部分「君は楚に二十余年相たるかな。名は相国なりといえども、実は楚王なり。五子はみな諸侯に相たり」と、取りあえず訓んでおきます。『史記』の春申君列伝にもほぼ同じシーンが存在しますが、「五子皆相諸侯」という6字は『史記』にはありません。「相」というのは、相国とか丞相とかの宰相クラスの役職を指していて、この文脈では「宰相である」という動詞的な用法です。『戦国策』は春申君の5人の男子がみな諸侯の宰相であると伝えているのです。春申君の子については、李園の妹の生んだ幽王しか知られていません。誰なんだ、春申君の5人の子って?
ということで、以下は信憑性マイナスの妄想コーナーですが;秦の昌文君・昌平君って、楚の公子で、相国になってましたよね;;;