「反乱」と「起義」の中国

中国の前近代の史書では、王朝への武力反抗が起こると、それは「乱」(亂)と書かれた。乱とはみだすことやみだれることを意味し、そむくことを意味する「反」(叛)とあわせて「反乱」(叛乱)という語も造られた。「反乱」とは王朝への反抗という凶事であり、王朝史観のもとではネガティブに捉えられる出来事であった。

いっぽう同じく王朝への武力反抗であっても、新しい権力の確立に成功し、新しい王朝の建国に成功したものは「反乱」とは呼ばれない。王朝史観のもとで建国とはポジティブな出来事であって、成功した反乱はすでに「反乱」ではないのだ。さて、日本ではなじみのない言葉だが、次なる国家の建国に成功した武装蜂起を「起義」と呼ぶことがあった。李淵は太原で「起義」したのであり、高歓は信都で「起義」したのである。

後代の社会の変化にともなって史観も変化し、それによって「起義」も「反乱」もその意味するニュアンスが変容していく。近代以降の西側の歴史学では、王朝史観のもとで貶められてきた「反乱」を、民衆の要求の拡充や社会の進歩の駆動力としてポジティブに捉えなおそうとする動きがあらわれる。歴史学にとどまらず、フランス革命ロシア革命、あるいは1968年的な、反抗や反体制による社会のレジームの変革を肯定する文脈で、「反乱」は積極的な意味を付与されていく。

しかし現代の中国では「反乱」に新たなニュアンスを付与することをせず、その代わりに「起義」の言葉を転用した。民衆による王朝への武力反抗に対して、もともとポジティブな意味を持っていた「起義」を適用したのである。新中国建国後の中国では、かつての王朝史観を裏返しにしたかのような革命史観のもとで、前近代の民衆の武力反抗をなんでも「農民起義」にしてしまったり、少数民族の反抗をこれまたなんでも「起義」と捉えるような風潮が存在した。ごく近年の先端的な研究はイデオロギー的な史観は後景に退き、実証回帰の傾向がみえるが、むしろ「起義」は脱臭された自然体の用語となっていることがうかがえる。

さて日本にいると「陳勝呉広の乱」とか「安史の乱」とか「紅巾の乱」といった歴史的なタームにいちいち文句をつけながら語る人も少ないだろう。しかしひとつの術語には、歴史が隠れ、史観が隠れ、価値観が隠れていることは、たまには考えてみてもいいかもしれない。