城市の人口


http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1205/28/news004.html
この表は中国史オタの目からみると、やはりツッコミたくなります。Wikipediaの「歴史上の推定都市人口」が元ネタに近いところを拾っていて、わりと参考になります。というかTertius Chandlerの推定について「日本と中国の推計値は根本的に無茶苦茶」としています。やるなWikipedia

まず紀元前200年の平城(現・大同市)の人口ですが、Tertius Chandlerの推定で75000人から100000人の間ということになっています。『漢書』地理志下の雁門郡の人口からして293454人しかいない比較的少人口の郡でして、その下の14県のひとつが平城県なわけですが。北魏のころならまだともかく、前漢初期の平城が世界レベルの都市人口でランクインするなどありえない話です。あるいは漢の高祖劉邦匈奴冒頓単于に包囲された「平城の恥」(紀元前200年)で一時的に増えたとかいうジョークではないかと。この時代なら長安に次いで洛陽、次いで臨淄がランクするくらいが自然です。

紀元100年の呉(現・蘇州市)の人口は、Tertius Chandlerの推定で90000人から100000人の間ということになっています。『後漢書』郡国志四の呉郡の人口が700782人と記録されていることから、後漢中期の呉県の都市人口の推定としてはそれほど過大ではないのかもしれませんが、当時の呉県が世界ランクする大都市だと言われると、違和感を禁じえないですね。闔廬のころでなし、はたまた明清の蘇州でもなし。この時代の長安の人口は意外と少なかったようなので、洛陽の次の大都市はどこかというと難しいのですけども。

人口の推定というのも古代・中世では難しいです。そもそも記録が少なく、稀少な記録もどの程度の信憑性があるのか、よほど誇大な数字でなければ判断は困難ですから。歴史人口学を文献で進めるにはわりと限界がきていて、あとは考古学やフィールド・ワークの成果を反映しながら微速で進んでいく分野なのではないかと、部外者なので勝手にそう思っています。それはさておき偏った結果を上図のように世界レベルで比較しても、おそらく真実から遠ざかるばかりでしょう。