秦地王

『魏書』世祖紀下の太平真君七年五月の条に、「蓋呉が(兵を)杏城に再集結させ、自ら秦地王を号した」とある。『北史』の魏本紀第二にも同様の記事がみえる。
『魏書』の封敕文伝に「略陽の王元達が梁会の乱に呼応し、兵衆を集めて城を攻め、休官・屠各の衆を招き出し、天水の休官の王官興を推して秦地王とした」とある。『北史』の封敕文伝にも同じ記事が載せられている。
封敕文伝にある梁会の乱が起こったのがやはり太平真君七年(西暦446年)のことであるので、2種類の秦地王記事は全く同年のものであると思われる。秦地王とはこの時期にしか見られない称号であるが、蓋呉と王官興という別人が同時期に秦地王を名乗っていたのであろうか?それとも同一人物の事跡が別の筆記をされたものなのであろうか?
蓋呉はこの前年の太平真君六年(西暦445年)に反乱を起こしており、盧水胡であることが明記されている。盧水胡ということは安定郡に属するはずであり、天水郡の休官であるとされる王官興の記述とは合わない。また前年からの反乱の中心人物がいまさら他人に推戴されるような記述をされるのもおかしい。蓋呉と王官興とは、別人の可能性が高い。
過去に範例を持たない王号が2カ所同時に現れるというのは不審である。何らかの影響関係を措定するのが自然と考えるが、現在持てる史料で詳細は不詳というしかない。