変化を記録しない「正史」?

岡田英弘氏は満洲史やモンゴル史の分野ではすぐれた業績を残されている研究者だが、こと中国史を語らせるとやや奇妙になってしまうのは、以下のような思い込みにあるのではないか。

岡田英弘『だれが中国をつくったか 負け惜しみの歴史観』(PHP新書)P25

いいかえれば「正史」は、中国の現実の姿を描くものではなく、中国の理想の姿を描くものなのである。理想の姿は、前漢武帝の時代の天下の姿である。何度もくりかえしていっているが、中国的な歴史観の建前では、天下に変化はあってはならない。実際には変化があっても、それを記録したら、歴史にはならない。
史記』に描かれた、前漢武帝の時代の天下の姿に合わない部分は、現実であっても、できるだけ言及を避け、無視しきれない部分はなるべく記述を抑える。これが『三国志』以後の「正史」の伝統になった。

http://books.google.co.jp/books?id=aykyDZxLxEIC&lpg=PP1&hl=ja&pg=PA25#v=onepage&q&f=false

岡田氏は正史の志の部分を読まれたことがあるのだろうか。たとえば『晋書』の職官志や『宋史』の職官志を読んで、官制の変化が記録されていないとお考えだろうか。あるいは『魏書』の官氏志や『遼史』の営衛志を読んで、時代の現実についての記述を抑えられているとの見解なのだろうか。いや志の部分に限る必要はないが、二十四史3213巻およそ4000万字の叙述が、変化のない「中国の理想の姿」を描いていると主張されるのだろうか。不遜ながら史料を見る眼鏡に問題があると考えるしだいである。