中国史における王朝断代の問題点

古代エジプトと王朝の区分 ―全32王朝は「実は分けすぎ」。(現在位置を確認します。)
↑に刺激を受けて、中国史における王朝断代について愚考自由な思考を展開してみたりするんだぜ。口調がうざいのは亭主の気分なので許すさー。
1.周が滅んだ紀元前256年、東周君の滅んだ紀元前249年、秦王政が即位した紀元前247年、秦が六国を滅ぼして中国を統一した紀元前221年、周と秦のあいだをどの時点で分けるのか実は悩ましいはずだが、あまり問題視されてないんだぜ。伝世史料をみると、『史記』は周本紀と秦本紀と秦始皇本紀に分けて王朝断代には関知しないさー。『資治通鑑』は紀元前256年まで周紀、紀元前255年から秦紀にして処理しているぜ。周の赧王五十九年の次の年は、秦の昭襄王五十二年だ。すばらしいんだぜ。現代の歴史年表は通鑑方式がわりと多いぜ。
2.みんな大好き三国志だぜ。劉備の建てた王朝はなんて呼んでる?蜀?蜀漢?ただの漢と呼んでるいい子はいないかな?いまどき季漢と呼ぶ朱子学者はいないか?漢の次に魏をはさまずに晋につながる朱子学派の王朝正統観(歴史観)なんてのもかつてあったんだぜ。「蜀ファン」を自称する人々が漢の正統に無頓着な現代というのは、脱王朝史観してていいことなんだろうか?うん、悩んでもしかたがないぜ。
3.南朝の(蕭道成の)斉と(蕭衍の)梁は同族だけど、国号が違うので別王朝だぜ。そういうことになってるから、そうなんだぜ、うん。
4.漢は王莽の簒奪をはさんで前漢西漢)と後漢東漢)に分けているのに、唐は武周をはさんでも分けないのはなぜなんだぜ。……と思ったけど、中宗と睿宗の重祚がいかんのだあね、しらんけどたぶん。
5.五代の後漢と十国の北漢を分けているのは、もちろん後世の都合さ。国都も傀儡度も違うので、別扱いしとかないと怒られるんだぜ、きっと。
6.遼とか金とか北宋とか南宋とかぐちゃぐちゃうざいぜ。
7.南宋の滅亡した1279年の次に、フビライが国号を元と改めた1271年をつなぐ年表とか……ないさ。
8.南京が首都の洪武帝の明と、北京が首都の永楽帝以後の明って、別王朝みたいとか言っても認められないんだぜ。↓あれ?
8’.南明は面白いけど、北京を追われたからもうだめなんだぜ。↑あれ?
9.袁世凱中華帝国とか、張勲復辟とか、偽満とかは無視しとくのが賢いんだぜ。
10.最後にちゃぶ台返しをすると、王朝による時代区分は政治史や社会史・法制史には必須かつ有効だけど、文化史とか技術史(科学史)とかではむしろ邪魔っけな夾雑物かもしれないぜ。文化や科学技術の発展については、サイクルの長短がさまざまなので、王朝の興廃で図式的に分けてしまうと、妙な先入観のもとになる危険があるぜ。むろん社会背景が文化に連動することはあるわけで、王朝の興廃が背景にあるなら、それはそれで解説されるべきではあるけどもな。たとえば魏晋の興廃が清談を生んだ的なさー。
結論:王朝断代なんてわりとテキトーでいい。(なら書くな!)