参合陂の兵数インフレ

常山王遵,昭成子壽鳩之子也。少而壯勇,不拘小節。太祖初,有佐命勳,賜爵略陽公。慕容寶之敗也,別率騎七百邀其歸路,由是有參合之捷。
『魏書』巻15 昭成子孫列伝第3

秋七月,慕容垂遣其子寶來寇五原,造舟收穀。帝遣右司馬許謙徵兵於姚興。東平公元儀徙據朔方。八月,帝親治兵於河南。九月,進師,臨河築臺告津,連旌沿河東西千里有餘。是時,陳留公元虔五萬騎在東,以絕其左,元儀五萬騎在河北,以承其後,略陽公元遵七萬騎塞其中山之路。
『魏書』巻2 太祖紀第2 登国10年

参合陂の戦いの前哨において、『魏書』列伝では「別率騎七百」を率いている略陽公拓跋遵が、太祖紀では「七萬騎」となっている。率いている兵数がちょうど百倍である。おそらく後者の少ないほうが実態に近かったと思う。ちなみに『資治通鑑』は多いほうを取っている。『北史』魏諸宗室列伝の中華書局校勘記は「百」字は「万」の誤りだとしているが、初期の北魏がそんなに多数の兵力の動員ができたら苦労はしてないんじゃないかな。