「嫁」字について

ここらへんの話をふまえながら
中国嫁日記」の差別性が自覚できない奴は差別主義者!…(゚Д゚)ハァ(Togetter)
http://togetter.com/li/166146
「中国嫁の差別性」によせて(The cape of an island)
http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110801/yome

説文解字』が「女適人也。白虎通曰:嫁者,家也。婦人外成以出適人爲家。按自家而出謂之嫁。至夫之家曰歸。喪服經謂嫁於大夫曰嫁,適士庶人曰適。此析言之也。渾言之皆可曰適。皆可曰嫁」と言っているので、「嫁」字は「とつぐ」のほうが原義です。ただし「嫁」にヨメという意味があるのは日本だけと言っている人がいるのですが、漢語の「嫁」にも派生義としてヨメの意味はあります。現代中国では「媳」のほうがもっぱら使われるため、勘違いしている人がいるのかもしれません。
語源的には、娶嫁婚の風習を前提にしているものの、侮蔑的な意味は見いだせません。差別的というなら、「大夫にとつぐのは『嫁』といい、士・庶人にとつぐのは『適』という」の部分でしょうが、現代的な問題系とは外れていると思われます。問題となるのは近現代以降の社会の変化によるギャップでしょう。

現代的に「嫁」字が問題になるであろう論点をふたつ挙げておきます。
1.イエ制度を前提としているので、対等な両性の合意にもとづく現代的な結婚観にはマッチしないと考える議論。「ヨメは婚家のもの」とか「イエとイエ同士の結婚」といった言説や社会実態に反感を覚える人間にとってはネガティブな文字であると言えると思います。「わたしは彼/彼女と結婚したのであって、家と結婚したわけではない」人にとっては、「嫁」は不快な字だということです。
中国嫁日記は差別的かどうか問題」の辞書的なまとめ(増田)
http://anond.hatelabo.jp/20110804093547
では、「非常に古い『家』の概念」として切断を図っているわけですが、古い概念だからと言って現代と断絶しているとは限らないのですよね。
2.女偏に家の字面が「夫(男性)は社会に出て働き、妻(女性)は家庭を守るべき」という性別役割の固定化を連想させるのでよくないと考える議論。
「夫は外で働き、妻は家庭を守る」という意識の変化(社会実情データ図録)
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2410.html
のように、こういう意識はいまだ廃れたとは言い難いことは統計的に出ています。この論点から「嫁」字を忌避する者は、「奥さん/奥様」「家内」「内儀」なども忌避することが多いと思います。

ということで、「嫁」字はヘイトスピーチに用いられる侮蔑語ではなく、字面に旧道徳的価値観を内包しているがゆえに問題とされる語なのだといえます。仮にヘイトスピーチが権力的に規制されるべきという合意が社会にあるのだとしても(このような合意は実際にはないわけですが)、これを「嫁」字に適用するのは不適当といえます。権力的規制がなじまないのと同様、報道的自粛やゾーニングの対象にもならないでしょう。同時に「嫁」字を忌避する論理を過剰に排斥する必要もまたないと思われます。こんかいpapsjp氏の問題提起があまりにお粗末だったため、そのあたりの腑分けに議論が進まなかったのが残念です。

「嫁」字から離れて、差別語一般の問題について私見を述べると、僕も「言葉狩り」には反対です。差別は文脈依存ですから、いわゆる差別語を使わなくても差別は可能ですし、また差別語を引いて反差別の主張をすることも可能です。狩るべきは不当な差別的行為そのものであって、差別語の一律的・権力的規制にはあまり意味がありません。場合によっては報道的自粛やゾーニングの対象になりうるという主張は許容しますが、権力的規制には賛同しかねます。ただ「言葉狩り」反対という自由権の主張を隠れ蓑に、ヘイトスピーチを「許された」と考える人々に対しては市民による不断の監視と批判が必要でしょう。
そう考えると、自由の世界とは権力的規制の世界より面倒なところであるといえます。しかし私たちの社会はその面倒なほうを選択してそれを誇りにするでしょう、と予言して駄文を〆ておきます。