秦三世は何者か

秦王子嬰の続柄をめぐって、T_Sさんのとこで話が出ていたので、便乗させてもらいます。
秦王子嬰の正体(てぃーえすのワードパッド)
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20100502/1272727354
秦王子嬰の正体2(てぃーえすのワードパッド)
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20100503/1272817126

このへんを考える材料として、滝川亀太郎センセの『史記会注考証』を示しておきます。

【考証】兪樾曰、本紀以子嬰爲始皇之孫、李斯傳以爲始皇之弟、葢不可考、而徐廣又以爲始皇之弟子、未知何據、中井積德曰、子嬰葢二世之兄也、恐太史公傳聞之謬、夫謂扶蘇爲長子、則二世之兄、非長子明矣、計其年數、不得有其子長與是謀也、且始皇之孫、宜稱公孫、不得稱公子、或兄子之子字、傳寫者誤增之也、

例によってテキトーに現代語にしてみます。

【考証】兪樾は、「本紀(『史記』秦始皇本紀)は子嬰を始皇帝の孫としている。李斯伝(『史記』李斯列伝)が始皇帝の弟とするのは、おそらく考えられないことだ」と言っている。徐広はまた始皇帝の弟の子としているが、何に拠ったものかは知られない。中井積徳は、「子嬰はおそらく二世の兄である。太史公伝(『史記』)の誤りであろう。そもそも扶蘇が〔始皇帝の〕長子であり、つまり〔ここでいう〕二世の兄とは長子でないのは明らかである。年数を数えると、その(子嬰の)子が成長していっしょに〔趙高殺害を〕謀るというのはありえない。かつ始皇帝の孫は公孫と称するべきで、公子と称することはできない。あるいは兄の子の『子』の字は、伝写した者が誤って増やしたものだろう」と言っている。

ついでなので、『史記』李斯列伝についてる三家注も示しておきます。

【集解】徐廣曰:「一本曰『召始皇弟子嬰,授之璽』。秦本紀云『子嬰者,二世之兄子也』。」【索隱】劉氏云:『弟』字誤,當為『孫』。子嬰,二世兄子。」

【集解】徐広は「ある本に『始皇の弟の子嬰を召し、これに璽を授ける』という。秦本紀に『子嬰は、二世の兄の子である』という」と言っている。
【索隠】劉氏は「『弟』の字は誤りで、『孫』とするべきである。子嬰は、二世の兄の子である」と言っている。


ここで子嬰の続柄についての諸説をまとめておくと、およそ4説あるんですね。
1.二世胡亥の兄の子、つまりは始皇帝の孫であるとする説(『史記』秦始皇本紀の記述による)
2.始皇帝の弟であるとする説(『史記』李斯列伝の記述による)
3.二世胡亥の兄、つまり始皇帝の子であるとする説(中井積徳の考証による)
4.始皇帝の弟の子であるとする説(『史記集解』が引く徐広の引く説とされるが…)

T_Sさんは子嬰の子がすでに成長していて子嬰とともに趙高殺害を謀議していることから、始皇帝の弟説を支持されているわけですが、始皇帝の孫とすると年齢がおかしいことはすでに中井積徳が指摘していて、こちらは二世の兄説を唱えています。

しかし二世の兄説を採るとしても、よく殺されなかったなあというのはありますね。そもそも始皇帝には二十数人の男子がいました。本来は後継者だったはずの長子の扶蘇は自殺させられ、末子の胡亥が二世皇帝となっています。そのあいだの兄弟はどうかというと、公子6人が杜で殺され(秦始皇本紀)、公子将閭の兄弟3人は自殺し(同)、公子12人が咸陽の市で処刑され(李斯列伝)、公子高が自殺する(同)という始末で、あれ?ほとんど全滅してね?という疑問もなきにしもあらずです。

ということで、始皇帝の弟説も、T_Sさんの記事を読んで、おもしろいかなあと思い始めたところです。大陸のほうでは始皇帝の弟説を支持する研究者も何人かいるようですね。
http://baike.baidu.com/view/75235.htm?fr=ala0_1_1#3

ところで、4.の子嬰を始皇帝の弟の子とする説というのは、『史記集解』の「召始皇弟子嬰」を「始皇の弟の子の嬰を召し」と読むものです。「始皇の弟の子嬰を召し」と読むのがそもそも自然な気がするんですが…。子嬰も嬰も両方あるのが混乱のもとですか。

ええと、結論は出ませんが、こういう重箱の隅な話でも先行の論考は当然のようにありますよ、というのを示したつもりです。考古史料によって補完できる見込みがあまりなさそうなところなので、箱の中の猫が生きているか死んでいるかの話が今後も存分にできるでしょうね。