梁『職貢図』題記の佚文が見つかった話

『職貢図』というのは、中国南北朝時代南朝梁のときに書かれた図録で、中国に朝貢してきた諸外国の使節の風俗を記録したものです。
こんなの↓です。

『職貢図』の原本は失われていて、台湾故宮博物院蔵の唐の閻立本の模本、おなじく台湾故宮蔵の南唐の顧徳謙の模本、中国国家博物館蔵の北宋の模本の三種が残っているそうです。『職貢図』の題記というのは、諸外国の人々の絵につけられたキャプション解説部分です。本来三十数カ国ぶんあったはずなのですが、北宋の模本の十三カ国のぶんしか伝わっていませんでした。
こんかい『愛日吟廬書畫續録』に清の張庚『諸番職貢圖巻』が載せられていたことが分かって、十八カ国ぶんの題記の佚文が出てきたわけです。北宋の模本の十三カ国とかぶっている部分もあり、まったくの再発見となるところもあるのですが、かぶっている部分でも欠落を補えるところがあったりして、重要な発見になりそうです。倭國の題記も北宋の模本にあるものから八十字を補えるそうです。

もとの論文は、趙燦鵬「南朝元帝《職貢圖》題記佚文的新發現」 (『文史』2011年第1輯)
http://www.docin.com/p-213449130.html
に落ちてるのですが、かなり重いです。いくつか起こしてみました。

武興蕃本是仇池國,國王姓楊。其國東連秦嶺,西接宕昌,南接梁漢,北接岐州。去長安百里。國有十萬戸,世世分減,今已半矣。言語與中國略同。着烏皂突騎帽,長身小袖袍,小口袴,皮靴。種五穀。婚姻備六禮。知詩書。知鶯大同元年,遣使符道安、楊瑍等送啓,乞歸其國。

武興蕃=仇池国ということで、ここですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%87%E6%B1%A0
南北朝時代に隴南で半独立を保った氐族の国です。「言語が中国とほぼ同じ」とか言ってるけど、いいのでしょうか?楊大眼の出身地というと、一部の人には分かりやすい?かもしれません。

高昌國,去益州一萬二千里。國人言語與魏略全。有五經、歴代史、諸子集,往往誦讀。……

高昌国はトルファンですね
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%98%8C

天門蠻者,昔孫休分武陵天門郡,時有怪石自開,故以天門為稱。其種姓曰田、曰覃,主簿者最強盛,金銀各數百石,恃其富豪,不肯賓興。梁初以来,方納質款,輸租賦如平民,遣子田慈入質。

天門蛮は中国正史に出てきません。三国呉の孫休が武陵郡から天門郡を分けて立てたところから、称しているとか。トゥチャ族の先民あつかいしてる向きもありますが、本当かどうかは知りません。

斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王姓募名泰,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉。

斯羅国=新羅です。「あるいは韓に属し、あるいは倭に属し、国王は(中国に)使者を派遣することができなかった」のところが騒ぎになってるらしいですね。梁の「普通二年」は西暦521年。「その王の姓は募、名は泰」ということで、法興王。521年に新羅の法興王が百済の先導ではじめて梁に遣使したってことですね、たぶん。言葉は百済の通訳がないと通じなかったということ。

宕昌國,在河南虜東南,益州之西北,隴西之地。其王曰梁氏。宋孝武世,宕昌王梁謹忽始貢方物。齊永明中,宕昌王梁彌機,機死,彌顔立,並受中國爵號,天監十年,……

宕昌国はここです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%95%E6%98%8C%E5%9B%BD
甘南で半独立を保った羌族の国です。「河南虜の東南」は河南国(吐谷渾)の東南ってことですね。重箱の隅つつきですが、梁弥機の次の人の名前違いませんか?

高句驪,晉東夷夫餘之別種也。漢世居玄菟之高驪縣,故以號焉。光武初年,高句驪王遣使朝貢,則始稱王。其俗人性凶急悪,而潔浄自善。婦人衣白,而男子衣……

起こすのに疲れました。あとはほかの人に任せますw。

以下は、関連リンク。
「日出処」を国書で用いた梁代の先例: 趙燦鵬「南朝元帝《職貢図》題記佚文的新発現」(聖徳太子研究の最前線)
http://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/5171fdc3bc35a4db04eb6d4dfcdbce49
짜가 梁職貢圖 倭國 諸記 감상
http://blog.daum.net/hsg8689/469
韓国語読めない(泣;