鮮卑大野部

唐の李氏が西魏のときに大野氏を賜姓されたことから、李氏が「鮮卑大野部」の出身であるとする説があるけれど、これの実態はよく分からない。まず「大野部」というずばりそのものの語は正史にみえない。宇文部・慕容部の語が『魏書』や『北史』に見え、段部が『晋書』に見えるようなのとは異なる。大野という部族の記述もまた見えない。あるのは大野を名乗る人物か、大野を賜姓された人物かのどちらかだけである。
正史中に登場する大野氏というと、唐の李氏を除けば、
大野拔(『魏書』巻80列伝68、『北史』巻49列伝37ほか、樊子鵠を殺害した人物)
大野胡也杖(『北史』巻36列伝24、大野拔と同一人物か)
閻慶とそのふたりの子(『周書』巻20列伝12、『北史』巻61列伝49、賜姓大野氏)
大野樹兒(『周書』巻25列伝17、『北史』巻59列伝47、都督)
くらいしか見えない。
これらの人物同士の関連もはっきりしないので、「大野部」があったとするのは、わりと大胆な仮説に属すると言っていいと思う。
唐の李氏のルーツについては、陳寅恪の趙郡李氏説や姚薇元の示唆する代郡李氏(叱李氏)説なども、それぞれ魅力を失っていない。陳寅恪を採れば鮮卑化した漢族になるし、姚薇元を採れば高車になるだろう。いずれにせよ確実な証拠とするには足りないし、論議の種はまだまだ尽きない。