計然と文子

史記』貨殖列伝に、越王句践に仕えた計然という人物が登場する。食糧備蓄の調整により食糧価格を統制しようとした経済家であり、前漢の平準法の先駆けとなる政策を提唱した人物である。貨幣経済の重要性を早くに認知していた人物でもあった。
史記集解』は徐広(『史記音義』)を引いて、「計然は、范蠡の師である。名を研といい、ゆえに諺に『研は、桑心の算』という」と述べる。また范子(『范子問計然』)を引いて、「計然は、葵丘濮上の人である。姓は辛氏といい、字は文子という。その祖先は晋国の亡命した公子であった。かつて南のかた越に遊歴し、范蠡がこれに師事した」と述べる。『史記索隠』は『呉越春秋』を引いて、かれのことを「計倪」ともいうと述べる。『漢書』敍伝上の顔師古注は「研は、計研である。別号に計倪といい、また計然ともいう」と述べる。
ところで北魏の李暹の『文子注』は、「姓は辛といい、葵丘濮上の人である。号は計然という。范蠡がこれに師事した」と述べる。ここでは『文子』12篇の著者が計然ということにされているのである。『文子』は老子の言行を解説した道家思想の書物である。経済家の計然の事跡と道家の文子の思想は相容れないようにみえるため、この見解には異論もあり、李暹の附会ではないかとも思われる。春秋戦国時代には、范文子や尹文子など文子と称される人物は多い。『文子』の著者はそうした文子のうちのひとりではあるのだろう。
しかし経済家と道家の両面を持つ人物というのも、もし実在したなら面白い。