「中国のローマ人」再び

珍説は死なぬ。ひさびさの「中国のローマ人」ネタです。
消えた古代ローマ軍の謎に迫る 蘭州大学イタリア文化研究センター(中国通信社)
http://www.china-news.co.jp/node/58894

(中国通信=東京)蘭州18日発新華社電によると、2000年余り前、古代ローマの軍団が中央アジアの戦場から謎の失踪を遂げた。伝えられるところでは、中国にたどり着き、その末裔が今でも北西部の甘粛省の村で生活しているという。
 「古代ローマ軍団失踪の謎を解き明かしたい」、蘭州大学イタリア文化研究センターの袁洪庚主任はこう述べた。
 今月初め、中国とイタリアは共同で蘭州大学イタリア文化研究センターを設立した。同センターの「中国におけるローマ軍団の末裔に関する研究」は、「シルクロード」一帯の中国とローマが接触した豊富な歴史的資料を発掘、記録、整理するもの。
 イタリアのセサ中国駐在大使が研究センターのプレート除幕式に出席し、「この研究は比較的難しいものになるかもしれないが、センターの設立で研究活動に素晴らしいチャンスと場所がもたらされ、当時いったいなにが起きたかを解明できると信じている」と述べた。
 紀元前53年(前漢甘露元年)、古代ローマ帝国の執政官クラッススはパルティアへの侵略戦争を起こしたが、逆にパルティア軍に砂漠の奥深くで包囲・せん滅され、クラッススは捕虜となり斬首された。そのとき、クラッススの息子プブリウスは精鋭の第1軍団6000人余りを率いて、包囲網を突破し、東方へ逃れ、その後行方がわからなくなった。
 「漢書・陳湯伝」には、漢の西域都護(西域を統括する役職)の甘延寿と副校尉(上級武官)の陳湯は紀元前36年、4万の将兵を率いてシツ(至+おおざと)支城に遠征し、匈奴のシツ支単于を攻め、「145人を生け捕りにし、1000余人が降伏した」と記されている。陳湯は戦闘中に変わった軍隊を発見した。100人余りの歩兵が魚の鱗のような陣形や盾を持った陣形を組み、土で築いた城の外に木の城を築いていた。この戦法はローマ軍だけがとっていた。
 歴史学者はこの軍隊は17年前に失踪したローマ軍の敗残軍ではないかと考えている。陳湯が捕らえた捕虜は甘粛省永昌県に連れて行かれた。当時の漢王朝は祁連山のふもとに「驪カン(かわへん+干)県」を置いて、捕虜を生活させたという。
 「後漢書」には「漢の初めに驪カン県を置き、国名を取って県名とした」と記載されている。「驪」は軍事的な意味合いを持つ言葉で、当時の中国人がローマを指すときにも使われていた。「漢書」から「隋書」まで「驪カン県」は間違いなく正確に記載されており、これが古代ローマ軍団の失踪の謎を解く扉を開いた。
 多くの歴史家は、永昌県は前漢王朝が古代ローマの捕虜を住まわせた場所と推測している。謎を解き明かす研究は、史料の記載に留まらず、永昌の県都周辺にある者来寨、杏花村、河灘村、焦家荘などの村の調査も行われた。今でも10から20世帯の人は見たところ、典型的な地中海の人の特徴を持っている。鼻が高く、眼のくぼみが深く、頭髪が自然にカールし、ひげ、頭髪、体毛が金色で、体格が良く、皮膚は赤みを帯びて白く透き通っている。このほか死者の埋葬は地形に関係なく頭を西方に向けるなど、通常とは異なる習俗を持っているという。
 2004年と05年に者来寨の村民、羅英さんと蔡俊年さんはそれぞれ北京の中国科学院と上海市でDNA鑑定を受けた。その結果、外国人の血筋であることが証明された。しかし専門家によると、DNAの鑑定結果で外国人の血筋であると証明されただけで、村民が古代ローマ軍団の末裔だと断定するわけにはいかないという。
 また次のように考える専門家もいる。「驪カン県」が設けられたのは、陳湯がシツ支単于を打ち破った時(紀元前36年)よりも古い。また永昌県は世界的に有名な「シルクロード」に位置し、内外の民族の血が混ざり合うことは自然なことで、欧州人のように見えても、古代ローマ人の末裔だとは断定できず、金髪や高い鼻、目の深いくぼみ、黄色の瞳などは、ローマ人の末裔だけの特徴ではない。
 古代ローマ軍団の謎の失踪はさらに謎が深まっている。史料が極端に少ないため、生物学、遺伝学、生命学、考古学など多くの研究が必要で、現在もまだ最終的な権威ある結論には至っていない。
 「蘭州大学イタリア文化研究センター」の設立で「古代ローマ軍団の末裔」に関するさまざまな謎の解明が再び学術研究課題となった。
 セサ大使は「歴史学者や研究者はまだ意見の一致を見ていないが、中国とローマの軍隊が接触していたことは確かで、さらなる研究で結論が得られるだろう」と述べた。

中国とイタリアが共同で「中国におけるローマ軍団の末裔に関する研究」をやるそうです。本気か……。んー蘭州大学イタリア文化研究センターを中伊共同で設立したのはホントで、たぶんその中の一課題なんじゃないかと。イタリア大使はよく分からずに無難なコメント発しただけなんじゃ……?そう信じたいです。

さて「中国のローマ人」説はネット上でも過去に批判されてきた経緯があるのですが、いまはググっても批判のほうはほとんどかからないのですよね。Wayback Machineアーカイブに残るのみか。
http://web.archive.org/web/20040909193732/www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/8986/rome-ch.html
http://web.archive.org/web/20080216185433/http://sengna.hustle.ne.jp/sb/sb.cgi?cid=2

この説に対する主な批判を今さらながら挙げておきます。
1.「クラッススの息子プブリウス」は、紀元前53年に対パルティア戦で戦死していて、「包囲網を突破し、東方へ逃れ」たわけはない。
プブリウス・リキニウス・クラッススWikipedia
2.「魚の鱗のような陣形」というのは、いわゆる「魚鱗の陣」(初出は『春秋左氏伝』桓公五年の「魚麗之陳」)と同様でローマのものと言い切れない。
3.「『驪』は軍事的な意味合いを持つ言葉で、当時の中国人がローマを指すときにも使われていた」などという事実はない。ちなみに「驪靬」(りけん)を「アレキサンドリア」の音通とみて、『後漢書』西域伝の「大秦國一名犂鞬」と結びつけ、驪靬=犂鞬=大秦国=ローマとかいうアクロバットな主張もあるようだが、附会が過ぎて支持できない。
4.陳湯が匈奴の郅支単于を攻撃して降伏させた捕虜千人余は、援軍を出した西域諸国の十五王に分け与えられている(『漢書』陳湯伝)ので、「驪靬」(=甘粛省永昌県)に連行されたはずがない。
ほかにも細かいことは色々とツッコまれているのですが、些末になるのでこのへんで。

妙な説を持ち出さなくても、漢(セレス)とローマ(大秦国)の交流ってのは語れるでしょうに、と思えてなりません。