歴史認識と「原罪論」みたいな

はてな。あえて具体論に踏み込まない方向で。
原罪論というと、一神教徒の背負ってる十字架であって、多神教徒には関係ないよ!ってことでもないかもしれない。
歴史を見るうちに、原罪論みたいなものに突き当たって、俺関係ないよ、生まれながらの原罪なんて認めないよ、歴史は物語でいいよ!と説く一派が現れる。それに対して史実は史実、「原罪」がもしあるのなら誠実にそれと向き合わなければならないと従来学派は反論する。
そこに史実を認めなくもないけど、年がら年中マジメに向き合ってられないよと説く「どっちもどっち派」が登場する。かれらは40年来の論争も知らず、一冊の概説書を読む手間も惜しんだまま、安易に双方を軽蔑したり、双方を対等に並列してメタ視点に立ったりするので、原罪肯定論者には否定論者以上に憎まれました…みたいな。
まあ本当に「政治的」に対応するなら、否定論者と同等に自称中立派を叩く原罪肯定論者は戦略的に間違ってるよね。ただ学問的に対応するなら、否定論者と同等に自称中立派を批判する肯定論者は「態度的に」正しいと思うよ。

さて本論ここまでで、注記しておくと、「原罪」というのは不適切なもののたとえとご覧あれ。受け止めかたはそれぞれあろう。ご批判請う。
俺は歴史の「原罪」を認めるが、個人的なつき合いで卑屈になる必要性を感じたことはない。なんていうか否定論者のほうがそのへん過敏だなと思う。過剰防衛心理で旧植民地国に対し過剰に攻撃的にならねばならない人たち、勇ましいことを言っているけども実際は心弱い人たちは、歴史の徒花かなと思わなくもない。