鬼畜に愛はいらぬ

人間はすべてを許されている。そのうえでいかなる価値を選択するかが問われる。
みたいなことを考えた。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090507-OYT1T01111.htm
http://d.hatena.ne.jp/yuuboku/20090508/1241809239
http://d.hatena.ne.jp/rna/20090509/p1
http://d.hatena.ne.jp/AntiSeptic/20090511/p1

鬼畜ゲー擁護論にもいろいろあって、人権団体やフェミニズムが嫌いだったり、欧米嫌悪だったり、表現の自由を守りたかったり、エロゲーや鬼畜ゲーの文化や既得権益を守りたかったり、それは論者による温度差があるだろうから、十把一絡げにはできないだろうけども。

最初は俺もヴォルテール的自由の信奉者として法的規制はダメだろうと考えていた。「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というやつだ。できれば業界内外で議論して、なあなあの自主規制でもしてくれと思っていた。

しかし擁護論をいろいろ読んでいるうちに、そのヌルさを反省した。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1260585.html
欧米に対するステロタイプな先入見を除くと、「鬼畜ゲーさせてくれなきゃ、レイプ増えますよ」式論法のなんと多いことかな。これは脅迫でしょ。いやそもそも言論は暴力性を秘めているものではあるが、そのことに無自覚で無邪気な発言のなんとまあ多いこと。自分の発言の暴力性にも、問題の差別性・非対称性にも無自覚なまま、「フィクションとノンフィクションの区別がつかないのか」と説教する。なんという軽さ、なんたる偽善、背徳者の風上にもおけない。

やっぱ偽善的説教強盗には日陰を歩いてもらったほうがいいよねw。
表現の自由が大事なら法的規制ごときに負けずに地下出版してよねw。
鬼畜ゲーに言うほどの社会的効能があるなら、きっと規制を越えて再生できるよ。禁酒法だって消えたしね。
欧米の暴力ゲームのほうが問題なんて、そんな下らないこというなよ。

そもそも愛がないか、それがひとりよがりであるがゆえの鬼畜ゲー。
愛なき修羅の道を歩んだほうがより楽しめるんではないだろうか。

ということで、俺は俺の内心的自由にもとづき、法的規制もやむなしな価値を選択しよう。
ヌルい自主規制なんて、鬼畜に失礼だろう。

ちなみに俺の議論は「強力効果論」が学術的に否定されているうんたらとは関係がない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E5%A2%83%E7%8A%AF%E7%BD%AA%E8%AA%98%E5%9B%A0%E8%AA%AC
犯罪が増えるとか増えないとかではない。社会的に規制され、後ろ指をさされて、はじめて背徳的悦びに震えるのが鬼畜であろうから、そうあれかしというだけである。マルキ・ド・サドの後継者なら、きっとそう願うはずだ。