Wikipediaのみに依拠して歴史の「改竄」を叫ぶ人

国史がらみで変な記事を見つけたと思ったら、またJBpressか!と思わなくもありません。伊東乾という音楽家のかたが書いた記事です。
歴史を都合よく改竄した欧米、その巧妙な手口 「歯ブラシは豚の毛で作られた」が示す、歴史の罠(JBpress)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5202

国家鮟鱇さんのところでも指摘されていることですが、このJBP記事中の基本的な事実の摘示は英語版と日本語版のWikipediaのみに依拠しているうえ、意図的かどうかは分かりませんが歯ブラシと歯磨きを混同しています。
歯ブラシの起源(国家鮟鱇)
http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20110107/1294372904
Toothbrush(Wikipedia英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Toothbrush
歯ブラシ(Wikipedia日本語版)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%AF%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B7

伊東氏のJBP記事中のイスラム仏教徒の例は、歯ブラシの話ではなく、むしろ楊枝に近い棒状の歯磨きですよね。歯ブラシの起源(というか前段階)は房楊枝なので、強弁できなくもありませんが、では「イスラム教徒は豚の毛を決して口に入れない」と言っている文脈が意味不明になります。毛のない楊枝に似た棒状の歯磨き器具ならば紀元前からユーラシアにあるわけですから、シュメールが早いのかエジプトが早いのかの話になります。歯ブラシの発明の話なら棒に毛を植えたものが現れたところからはじめなければ、何の話をしているのか訳が分かりません。

棒状のものに毛を植えた歯磨き器具という意味での歯ブラシが生まれたのが、1498年より古いだろうことは中国史でも言われています。
宋代には馬の尾を植えた「刷牙子」があったらしいこと(周守中『養生類纂』「早起不可用刷牙子」)や、遼代の墓(大営子村駙馬衛国王墓=蕭沙姑墓)から象牙の歯ブラシらしいものが出土していることなどから、このころにはすでに中国にあったものと考えられています。記事中の道元の見聞も傍証に加えて矛盾ありません。
http://blog.sina.com.cn/s/blog_60c209960100f2td.html
http://www.ccrnews.com.cn/100018/100020/18253.html
ちなみに16世紀にシベリアの山猪の毛を使って現在の形に近い歯ブラシが作られたらしいです。
http://wyz3535.blog.163.com/blog/static/12755927120107189354167/
猪=野生の豚ですし、現代中国語では猪=豚です。翻訳や要約の過程で混同が起こってもおかしくありませんし、このあたりから豚の毛を使った歯ブラシの話が出てきたかもしれませんね。

アメリ歯科医師会によると、1498年に中国の皇帝が豚毛を骨の柄に植えつけたものを歯磨きに使用したものが、最初の歯ブラシであるとしている。」(Wikipedia日本語版)というのは、現在歯科医師会による原文が確認できないのですが、おそらく明の高濂『遵生八笺』の中で「嗽齒勿用棕刷,敗齒」(歯を嗽ぐに棕刷を用いるなかれ、歯を敗う)と歯ブラシに言及していることからの附会の説ではないかと思われます。高濂『遵生八笺』には歯ブラシに言及している箇所はあっても、皇帝も1498年の年号も出てこないのですが、なぜか『遵生八笺』の成立を1498年とする言説が散見されます。
http://www.baidu.com/s?&wd=%D7%F1%C9%FA%B0%CB%BC%E3+%BA%EB%D6%CE%CA%AE%D2%BB%C4%EA
http://www.foyuan.net/plus/view.php?aid=77034&pageno=3
正しくは『遵生八笺』の成立は1591年ですけどね。なにやらこじつけっぽいですけど、ほかにそれらしい心当たりが出てきませんので、とりあえず。このへんについては情報求むです。

さて、まとめに入りますが、楊枝から歯ブラシに進化したのは中国大陸のいつかどこかで、遼・宋以前の可能性が高いくらいのことは今のところ言えます。今後新たな考古発見があれば別の結論が出るかもしれませんけども。JBP記事に話を戻しますが、以上の経緯からアメリ歯科医師会の説が間違いだろうと指摘するのは構いません。しかし故意に謬説を流布したという証明があるわけでもなく、間違った学説や古い学説がそく倫理的非難に値するとはいえません。まして主語を大きくして「欧米」による「改竄」の問題にしてしまうにいたっては全く理解できません。Wikipediaに書かれていることを追認する程度の記事で、ここまで居丈高になれる理由があるのでしょうか。

「ヨーロッパは意外に間抜けで遅れていることがよく分かる。」などと簡単に言ってのけるお利口な人にとっては、歯ブラシと楊枝の区別など、どうでもいいのでしょうけどね。