冉閔の子孫
「染華墓誌」−羅新・葉煒『新出魏晋南北朝墓誌疏証』(中華書局)P124〜より、テキトーに抄訳。
惟れ大魏孝昌二年歳次丙午十一月丙申朔十四日己酉・故鎮遠将軍射声校尉染府君の墓誌
君は諱を華といい、字を進楽といい、魏郡内黄の人である。その先は帝嚳の苗裔であり、周の文王の少子の冉季の後である。高祖の閔は、趙の武帝(石虎)の初め、西華王に封ぜられ、侍中・使持節・都督中外諸軍事・黄鉞大将軍・録尚書事・武信王となった。趙の国祚が既に微(おとろ)えると、遂に帝位に升り、号して魏天王といった。群臣は皇図に依り、奏して族を改め、因って氏に即いた。崩ずると、諡を平帝といった。曾祖の叡は、燕に仕えて散騎常侍・海冥県侯となった。祖の興は、太武皇帝の聖世に安遠将軍・殿中給事・蒲陰伯となった。崩ずると、輔国将軍・洛州刺史を贈られ、諡を恵侯といった。父の雅は、孝文皇帝の聖世に輦曹給事となり、使持節・征虜将軍・懐州刺史・北平侯に遷り、武衛将軍・北中将・光禄太府二卿に転じた。崩ずると、平西将軍・河州刺史を贈られ、諡を貞侯といった。(中略/以下の誌文は染華について)太和二十年、皇子北海王常侍に除され、鎮遠将軍・射声校尉に稍遷した。(中略)惟れ正光五年十月三十日、疾が構じて京都で崩じた。(後略)
1990年秋に河南省偃師県城関鎮杏元村で出土した墓誌。現在は偃師商城博物館に所蔵され、出土状況は『考古』1993年第5期に掲載されているとのこと。墓誌によると、染華は465年生まれ、北魏の鎮遠将軍・射声校尉まで累進し、524年に洛陽で没した。注目点は高祖父にあたる冉閔についてである。冉閔は、五胡十六国の後趙石氏につかえ、後趙の後をうけて冉魏を建国した人物。羯族二十万人を虐殺したとされ、悪名高い。本書『〜墓誌疏証』は、墓誌中の「西華王」を「西華侯」の誤りと指摘する。また冉閔の諡を平帝とするのは、史書に見えないと指摘する。また『晋書』には、冉閔の子として智・胤・明・裕が見えるが、叡は見えないと指摘する。
さておき、冉魏の滅亡後に冉閔の子の冉叡が慕容氏の燕に仕えたこと、冉閔の子孫が北魏のときに染姓を名乗って存続していたこと、死去の事実を「崩」と記していることなどは面白い。