『魏晋南北朝壁画墓の世界』

蘇哲『白帝社アジア史選書008 魏晋南北朝壁画墓の世界 絵に描かれた群雄割拠と民族移動の時代』(白帝社)
からして長い。以下、適当に要約。

第一章 三国西晋の壁画墓

    • 曹操の薄葬令を引き継いだ魏・晋代の中原での壁画墓は衰微し、代わりに河西地域での壁画墓が繁栄した。
    • 嘉峪関新城魏晋壁画墓群では、後漢の画像石によくみられた牛頭・鶏頭神像、平和な田園風景の中の屯田・塢壁、河西地域の羌人・胡人などが描かれた。

第二章 五胡十六国時代の壁画墓

    • 酒泉丁家閘五号墓の壁画にみられる西王母東王父
    • 北朝鮮の安岳三号墓は、慕容皝の司馬の冬寿の墓であり、その冬寿出行図から鹵簿制度が検討される。筆者は安岳三号墓が高句麗古墳ではないとの立場。冬寿が高句麗に亡命したのち、高句麗を離れて東晋に藩属したとの説。
    • 牛車が上流貴族の乗り物になったのは、後漢末期以降。

第三章 北魏洛陽遷都前の壁画墓

    • 平城郊外の張女墳墓地の木棺に描かれた狩猟図にみられる虎圏。
    • 盛楽郊外の楡樹村壁画墓にみられる野生馬狩り。
    • 司馬金龍墓の漆屏風に描かれる儒教説話。
    • 文明太后馮氏の永固陵の巨大さ。馮太后は献文帝を毒殺したため、拓跋氏の陵墓に合葬されることを避けた。孝文帝が馮太后の私生児であると推定したのは呂思勉の説。献文帝は孝文帝に譲位して太上皇帝となることで、むしろ政権を掌握し、馮太后を牽制しようとした。献文帝が殺されたのち、馮太后は献文帝の関係者を粛清した。太和の初期は馮太后対孝文帝の冷戦時代。『魏書』楊椿伝の記述から、馮太后が孝文帝を厳しく監視していたことが分かる。孝文帝は譲歩と忍耐で馮太后との対立を緩和し、馮氏の独裁から帝と馮氏の連合統治の方向に転換。孝文帝は自分の陵墓として用意されていた寿陵を捨ててまで、平城から洛陽への遷都を強行。父を殺した祖母の墓所から逃れたかったのではないか。ここら馮太后がらみの話は非常におもしろい。川本芳昭『中国の歴史05 中華の崩壊と拡大』で強調されていた馮太后・孝文帝母子説のまさに真逆をいく主張。
    • 寧夏自治区高平鎮出土の漆棺画の孝子伝図は鮮卑風。

第四章 北魏後期の石棺画像

    • 1920年代から30年代にかけて洛陽の北魏墓は盗掘が横行し、いくつかの画像石棺が欧米に流出。
    • ミネアポリス美術館蔵の伝元謐石棺画像の孝子郭巨説話図や眉間赤説話図では説話に登場しないはずの余計な人物が描かれている。
    • ボストン美術館蔵の横野将軍寧懋石室画像の「董宴母供王寄母語時」の題は「董黯母供王寄母語時」の誤り。
    • 北朝古墳で孝子伝図がよく描かれたのは、不安定な政治の中で親族の利益を守るため、「忠」より「孝」、君臣関係より親族関係が重視されたから。

第五章 東魏北斉の壁画墓

    • 東魏から北斉にかけての壁画墓の数は多く、保存状態も比較的良好なものが多い。
    • 推定北斉文宣帝高洋墓の武寧陵からは1805点の俑が出土。
    • 墓誌は身分が高いほど大きく、女性のものは男性のものより小さい傾向がある。
    • 崔芬南朝墓の影響を受けて竹林七賢+栄啓期の屏風画がみられる。

第六章 東晋南朝の壁画墓と画像磚墓

    • 雲南省昭通県霍承嗣墓にみられる具装騎兵(馬鎧をつけた「鉄騎」)。
    • 河南省鄭県学荘南朝画像墓にみられる神仙説話。

第七章 ソグド系の石屏風、石槨画

    • 北周同州薩宝・大都督安伽墓にゾロアスター教の祭壇。石棺台屏風十二幅。うち五幅は突厥と関連。
    • 北周涼州薩宝史君墓。
    • ソグドの埋葬風習は、火葬と天葬が流行。天葬とは死体を犬に食わせてから骸骨を埋葬する方法。石国(タシケント)では火葬が盛んだったらしい。

最後のほう、要約するのも疲れてだいぶ端折ってみた。あとがきによると、日本語のチェックはされているらしいが、読んでみるとやはりチェックが甘いので、「てにをは」がおかしくて変な文が多い。内容も内容なので取っつきにくい本ではあると思う。しかし、情報は詰めこまれているし、魏晋南北朝史が好きなら、興味深い要素も見つけられるだろう。