春秋戦国における各国の国号は、後世いかに流用されたか

秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の戦国七雄の国号とそれらがどのあたりにあったかを覚えていない人間が中国史畑にいたら、そいつはモグリである。僕ははっきり言ってアマチュアだが、これは断言しておく。「わたしは古代史ではないから」などという言い訳も聞く必要はない。秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓とか、あるいは晋とか魯とかは、近世・近代・現代でだって中国での重要概念のひとつなのだ。

1.王朝の国号として
まずは中国の王朝時代の国号として、幾度も流用されていることが想起される。魏を国号としたのに、三国の魏と北魏東魏西魏があったし、晋を国号としたのに、西晋東晋後晋があった。五胡十六国には、趙・燕・秦を国号とした国が乱立した。また五代十国には楚があった。王朝叛乱者たちが立てた国にも、桓玄の楚・安禄山の燕・黄巣の斉などがあった。
2.諸侯王の封号として
王朝の諸侯王の封号として、秦王・楚王・斉王といったものがある。たいていはその時代の帝室の同姓諸侯で、宗室や皇子たちが封ぜられる。しかも秦王とか晋王とかは、諸侯王の中でもランクが高いのがふつうである(ただし六朝のころには例外がみられる。東晋では琅邪王≒皇太子だった例など)。モンゴルのジノンが晋王の転訛であることなども知られる。
3.郡県制・州県制の中で
王朝の郡県制・州県制の中で、斉郡、魏郡、魯郡、秦州、鄭州という地名として使われている。
4.各省の簡称
晋は山西省、魯は山東省、このふたつは現代の中国各省の簡称として使われている。中国の車のナンバーでこれを見かけると、思わずニヤリとしてしまう。

通時代的にみて、秦・楚・斉・燕…は、おおよその地域概念として使用されてきている。細かい変遷はあるものの、秦は隴西、楚(荊)は洞庭湖の周辺、斉は山東、燕は北京周辺、趙は太行山脈周辺、魏は開封周辺、韓は新鄭周辺、晋は山西、魯は曲阜周辺と考えてほぼ間違いない。チャイナ・プロパーにおける地域概念は、春秋戦国以降連続しており、戦国七雄のころの地図を見ておくことは、現代の中国を理解するうえでも無意味ではない。…と手前味噌な結論を導いておいて、駄文終了。