建文帝の追諡

明の太祖(朱元璋)の孫で二代目の建文帝(朱允炆)の治世(1398-1402)は、永楽帝(朱棣)の発動した靖難の役によって正統性を否認され、「なかったこと」にされてしまった。正徳・万暦・崇禎年間にかれの廟号について朝廷の議論があったらしいが、追諡は実行されなかった。南明の弘光年間になって、ようやく恵宗讓皇帝と諡されて、二代目皇帝として追認された。清の乾隆元年(1736)には、かれは恭閔恵皇帝と追諡された。