唐高祖太穆竇皇后の生没年推定。

唐の高祖(李淵)のパートナーの竇皇后、生前は皇后に上ってないんですが、そう呼んでおきます。
名前は伝わっていません。
父は、北周の上柱国の竇毅。
母は、北周武帝(宇文邕)の姉にあたる襄陽長公主。
このふたりの間のむすめです。三歳にして髪の長さが身長と等しくなったとか、本当かいな。
幼いころから『女誡』や『列女伝』を読んでて、武帝に愛でられたとかいうヤラしいむすめさんだったようです。
李淵と結婚したときの挿話が面白いもので、彼女はかぐや姫だった(嘘)ので、なみいる求婚者たちに無理難題(大げさ)を押しつけます。
彼女は屏間に孔雀を描かせて、求婚者たちに二矢を射させてみました。しかし数十人に射させても当たりません。最後に李淵が孔雀の両眼を射抜いてみせたので、李淵にとついだのだといいます。

竇皇后の生没年は不明なのですが、涿郡で亡くなったことと、享年四十五歳だったことは正史に見えます。
僕は、西暦569年生、613年没と推定したのですが、
以下にその根拠を挙げます。

1.竇皇后は、李淵との間に4子を産んでいて、上から李建成・李世民・李玄覇・李元吉。いちばん下の李元吉が603年生まれですから、元吉の生年が動かない限り、それ以降に亡くなったことは確実です。
2.竇皇后は、武徳元年(618)六月己卯に穆皇后と追諡されています。それ以前に亡くなっていることは確実です。
3.涿郡で亡くなったということから、李淵が太原留守になった大業十三年(617)以降の可能性はまず消えます。同様に李淵が山西河東慰撫大使となった大業十一年(615)以降の可能性もほぼ消えます。大業初年に李淵が滎陽・樓煩二郡太守だったころ、また中央で殿内少監となったころも可能性は低いでしょう。
4.李淵夫妻が涿郡にあった可能性がもっとも高いのは、煬帝高句麗遠征のために李淵が糧食の運搬にあたった年です。ちょうど楊玄感が乱を起こした年です。これは大業九年(613)。

613年没が決まれば、享年四十五歳から569年生は自動的に出ます。北周武帝の治世後半に愛らしいお子様だったこととも合致します。
以上、憶測の部分が大きいので、真に受けないでください。