李淵の太原起兵の直接的契機は劉武周の乱とか

大唐創業起居注 そののいん(Carpe Diem III)

前回分、余所でコメントされてたみたいなので、コメント返し。

もしかしなくても、俺のこれでせうか?(汗;

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://ksowhaty.s7.xrea.com/nya_san_nya/2008/04/post_69.html
2008年04月28日 nagaichi 李淵の太原「起義」の名分は隋室保護だと思います。まあでも、兵を集めた口実が劉武周の討伐だったりするのでアレですし。狙いがあからさまだったから、隋臣の屈突通らに抵抗を受けたわけですが。

口幅ったいこと言ってて、申し訳ないです。

李淵の行動は博打色が強くて、あれ、頓挫したら凄くやばい。
突厥や劉武周が動かないなんて保証は無いし、
騎兵三万で強襲、後はどれだけ兵力を吸収できるかって、それなんて西楚覇王。
残留組もどこまで信用できるのか。

李淵の太原起兵がかなり危険な博打だというのは同感ですが、隋朝に忠実な地方司令官でありつづけることに、さらに危険な臭いを感じ取ったってことなんじゃないかと思います。
より直接的な契機は劉武周の乱なんだろうと。
隋の中枢は遠く江北の江都に移っており、山東・河南の叛乱は鎮圧されるメドもなく、気がつくと北の突厥とまともに対峙するのは俺ひとり…。目と鼻の先で劉武周なんてやつまで騒ぎ出した。こりゃ突厥と結んだほうが得だわいという計算が働いたのではないかと。
しかし大人な李淵は、実質は親突厥の反隋だけど、名分としては隋室保護を立てたと。

長安の隋朝留守組からみれば、対突厥の前線司令官の唐公が突厥サイドに寝返ったと即座に勘づいたわけで、逮捕命令が発動。長安にいた李淵の親族(李神通とか太平公主とか)は鄠県に逃亡。河東にいた李建成や李元吉も太原に逃亡。逃げ切れなかった李淵五男の李智雲などは処刑されてますね。

しかし反隋を明白にしなかった曖昧化戦略の副産物として、隋の長安留守組の官僚たちが唐の新政権に組みこまれるのがスムースになったと思います。

ただ、李淵軍閥の最初期形態を太原周辺の地方官・豪族集団だとすると、
蕭銑の軍閥と構造的には似たものかなあと考えられまして。
その蕭銑の軍閥も「梁朝再興」をスローガンにしてるものの、
構成員にとって本来的に利権に関わらない地域への拡大が上手くいかなくて、
というか、何かしらの決定打を出せないうちに、まもなく不安定な状態になってる。
で、李淵軍閥がそうならなかったのは何が原因なんだろうみたいなとこに
行き着いたんですよ。

李淵の地方官としての職分は、太原留守・山西河東慰撫大使なわけですが、太原が李淵の地盤なのかというと微妙です。李淵が太原留守に就任したのが、大業十三年(617年)と起兵の年なわけで、それほど確固とした地盤ではなかったと思います。息子の李建成らを置いていた河東とかのほうが李淵にとってまだしも古い地盤かと。太原が李淵にとってこだわりのある地盤でなかったゆえに捨て石にできた面があるようにも思えます。楊玄感の乱のときに、李淵は関右の諸軍を統率していますが、もともと関中にもそれなりの地盤があったのではないかと。そうでなければ李神通や太平公主が短期間に関中で大軍をかき集められたのが分からないです。

蕭銑の軍閥と似ているというと、隋の地方官を相当数取り込んでいる点ですかね。蕭銑はごく短い間とはいえ華中・華南のほとんどの地域を服属させていたわけで、瞬間的には李密や竇建徳の最大版図より広い地域を領していたわけですが。組織の繋がりがゆるすぎて人間を繋ぎとめることができなかったかなあ。正史的には猜疑心の強い蕭銑の個人的資質に帰していますが、それだけで済ませてはいかんのでしょうね。

そうだとすると、李淵は自分を凄く流動的な位置に置いてたのかなあと。
姿勢を明確にすれば、どっかで矛盾が明白になりそうで。

李淵は行き当たりばったりで天下を取ったように見えるってことでしょうか?
反隋の諸賊の前では反隋の顔をし、隋を支持した官僚層の前では隋室を継いだ顔をしてみせる。
もし失敗していたら、劉黒闥よろしく突厥に逃亡してたかもしれませんね。(笑)