凌煙閣の功臣

唐の貞観十七年(643)、凌煙閣に唐朝創業の功臣の画が描かれた。 趙公長孫無忌・趙郡元王李孝恭・莱成公杜如晦・鄭文貞公魏徴・梁公房玄齢・申公高士廉・鄂公尉遅敬徳・衛公李靖・宋公蕭瑀・褒忠壮公段志玄・夔公劉弘基・蒋忠公屈突通・鄖節公殷開山・譙襄公柴紹・邳襄公長孫順徳・鄖公張亮・陳公侯君集・郯襄公張公謹・盧公程知節・永興文懿公虞世南・渝襄公劉政会・莒公唐倹・英公李世勣・胡壮公秦叔宝の二十四人である。すでにそのとき死去していた人物も含まれ、故人には諡が附されて区別される。
名を挙げた順は、ほぼ当時の功臣の序列を反映している。唐室の外戚であり、関隴集団中トップの家柄である長孫無忌が筆頭。唐の宗室で、江南・山南・四川の広大な領域を平定した李孝恭が、次に来る。魏徴の序列が高いのは、既に死去しており、司空位を追贈されていたため。意外に武臣の尉遅敬徳の序列が高い。侯君集は、吐谷渾・西域遠征で活躍したが、あと一年描かれるのが遅ければ、太子位をめぐる騒動の余波を受けてリストに入ることすらできなかったろう。
さらに意外なことに、李勣(李世勣)の序列が下から2番目と低いこと。李勣は黎陽・河南・并州(太原)など地方の要地に駐屯していることが長く、このころまで中央での高い地位を獲得していなかった(それでも兵部尚書だったりはするわけだが)。李勣が宰相級の地位につくようになったのは、凌煙閣に描かれたこの時期からであり、それまでは功臣中の地位は決して高くなかったのである。李勣が相応に評価されるようになったのは、かなり遅い時期であり、李勣は長生き(数え八十六歳)したことで帳尻を合わせたといえるかもしれない。