中国の僧旻

 遠山美都男『新版大化改新』(中公新書)を読んでいたら、p.202に

「僧+某」という僧名は南北朝時代の中国に多く見られたものであった。仏教信仰に傾斜して王朝を滅ぼしたと言われる梁(南朝第三の王朝)の武帝に仕えた僧侶の僧旻は有名である。「国博士」僧旻の名は武帝の仏教信仰を支えた僧旻の名にあやかったのかも知れない。

という一節があった。
 あまりピンと来なかったので、調べたところ、『続高僧伝』巻五義解篇初に僧旻の伝記があった。俗姓は孫氏で、呉郡富春県の出身。孫権の子孫を称していたらしい。7歳で出家して虎丘西山寺に入り、13歳で建康の白馬寺に移り、16歳で荘厳寺の曇景に師事した。斉の竟陵王蕭子良や尚書令王倹とも交流があったらしい。荘厳寺の住持として南朝斉・梁の二朝でたびたび講論をおこなっていたようだ。所伝では「大通八年二月一日清旦,卒于寺房,春秋六十一」とあるが、梁の大通年間(527年~529年)は3年しかないのが味噌である。どうやら「普通八年」(527年)の誤字と解釈するのが通説らしく、僧旻の生没年は467年-527年としているものが多いようだ。『続高僧伝』に立伝される程度には有名だが、森三樹三郎『梁の武帝』には名が出てこない程度には有名でない人物といったところか。「武帝の仏教信仰を支えた」とまで言うほどの人物には思えない。

 ちなみに蛇足だが、『隋書』礼儀志四にみえる梁の大同七年(541年)の皇太子蕭綱の子の入学に対して意見した諸臣に「尚書臣僧旻」というのがいるが、これは『続高僧伝』の僧旻とは全く別人だろう。姓ははっきりしないが、王僧孺や王僧辯に近しい人物かもしれない。

白司馬坂の大像

『仏祖統紀』巻39「久視元年四月,詔斂天下僧尼日一錢,作大像於白司馬坂」
資治通鑑』巻207長安四年夏四月条「太后復稅天下僧尼,作大像於白司馬阪,令替官尚書武攸寧檢校,糜費巨億」
旧唐書』張廷珪伝「則天稅天下僧尼出錢,欲於白司馬坂營建大像。廷珪上疏諫」
旧唐書』李嶠伝「長安末,則天將建大像於白司馬坂,嶠上疏諫之」
旧唐書』蘇珦伝「時有詔白司馬坂營大像,糜費巨億,珦以妨農,上疏切諫,則天納焉」
 久視元年(700年)なのか長安四年(704年)なのか知れないが、武則天が僧尼から税金を取って白司馬坂に大像を作ろうとしたらしい。通鑑によれば、武攸寧を検校として巨億の費用をかけて建立される計画であった。張廷珪や李嶠や蘇珦らが諫めて中止されたものと思われる。
 白司馬坂がどこかといえば、『旧唐書』侯思止伝に「洛陽有坂號白司馬坂」といい、『資治通鑑』巻182胡注は「白司馬坂在邙山北,邙山在洛城北」といっている。洛陽の北の邙山の北にあったらしい。
 『新唐書』張廷珪伝によると、「神龍初,詔白司馬坂復營佛祠,廷珪方奉詔抵河北,道出其所,見營築勞亟,懷不能已,上書切爭」という。神龍初年、中宗により白司馬坂に再び仏祠を造営する命令が出され、張廷珪が上書して諫めたとされている。続きに「帝不省」というから、今度は造営中止されなかったと思われる。『白孔六帖』巻89に「白司馬坂復營佛祠,營寺塔廣殿長廊」とあって、寺塔・広殿・長廊の営建のことは見えるが、大像の記述が見えないので、大像は結局作られなかったのだろう。

「分配」はたぶん和製漢語じゃない

 漢語的には動詞的用法しかないことと、「分けて配る」だけではなく、「分けて配置する」「分けて派遣する」の意味も持っていることには注意が必要だが、古い漢籍に用例は多数あり、和製漢語と主張するのは苦しい。もちろん名詞的用法が古典には存在しなかったとか、意味がやや変わっているとか、近代経済学の用語としたのは日本だとか主張して、和製漢語と主張するのも考えられるが、正直見苦しいように思われる。
『晋書』陳敏伝「敏請合率運兵,公分配眾力,破之必矣」
『晋書』石季龍載記上「先是,大發百姓女二十已下十三已上三萬餘人,為三等之第以分配之」
『魏書』高祖紀上延興四年条「二月,詔西征吐谷渾兵在句律城初叛軍者斬,次分配柔玄、武川二鎮」
『魏書』孝静帝紀武定二年条「文襄王從獻武王討山胡,破之,俘獲一萬餘戶,分配諸州」
『隋書』天文志上「至天監六年,武帝以晝夜百刻,分配十二辰,辰得八刻,仍有餘分」
『隋書』司馬徳戡伝「後數日,化及署諸將,分配士卒」
旧唐書』敬宗紀宝暦二年条「中官李奉義、王惟直、成守貞各杖三十,分配諸陵」


曹触竜と左師触竜

 『荀子』臣道篇に「若曹觸龍之於紂者可謂國賊矣」という一節がある。金谷治訳注『荀子(上)』(岩波文庫)p.292の訳を引くと、「曹触竜が殷の紂王にとりいっ〔て亡国におとしいれ〕たのなどは国賊というべきである」とある。
 また『荀子』議兵篇に「微子開封於宋曹觸龍斷於軍」という一節がある。前掲書『荀子(上)』p.322を引くと、「微子啓は宋に封建されたが曹触竜は軍できり殺され」とある。
 殷の紂王の臣下に曹触竜という人物がいたとする伝説は、『荀子』をもとにしている。この曹触竜と混同される伝説的人物に左師触竜というのがいる。
 劉向『説苑』巻十に「其臣有左師觸龍者諂諛不止湯誅桀左師觸龍者身死四支不同」とある。訳をつけると、「夏の桀王の臣下に左師触竜という者がいて、阿諛追従のとどまることがなかった。殷の湯王が夏の桀王を殺すと、左師触竜は四肢ばらばらにされて死んだ」といったところか。ここまで曹触竜と左師触竜はエピソード的に類似しているが、その主君を殷の紂王とするか、夏の桀王とするかで異なっている。
 さて、左師触竜の初出は、じつは前漢末の『説苑』ではない。司馬遷史記』趙世家孝成王元年条に「左師觸龍言願見太后太后盛氣而胥之」という一節がある。小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳『史記世家(中)』(岩波文庫)p.169の訳を引くと、「左師(上卿)の触竜が太后に目どおりしたいと申し出た。太后は怒気はげしく、しばらく待たせた」とある。ここでは左師触竜は紀元前3世紀の戦国趙の人物なのである。
 劉向『戦国策』趙策四の趙太后新用事章に「左師觸讋」が登場し、『史記』趙世家と類似した挿話を収録している以上、劉向は戦国趙に左師触竜という人物がいたことを知っていたはずである。それにもかかわらず、別著の『説苑』では左師触竜を夏殷革命のころの人物として加上した疑いがある。なお戦国時代の荀況の著作を整理して『荀子』にまとめたのも、前漢末の劉向なのである。曹触竜と左師触竜をめぐる後世の記述の混乱は、一義的に劉向に責任がある。しかも故意である疑いすら捨てきれない。

曹魏南部君墓誌

君諱陵,字子皐,天水冀人也。以漢建安八年春正月七日癸巳生,魏景初三年夏五月十二日丙申遭疾而卒,年卅有七,冬十有二月葬于此土。君之祖父,故上計掾,察茂才,四城令,張掖太守。伯父武陵□城太守。父舉孝廉賢良方正,察茂才,高平令,司空府闢舉茂才,槐里令,西海太守,議郎,諫議大夫。一從父舉孝廉,金吾丞…(三行半判読不能)…君在官,惠愛公平,吏民稱述。
南部君長女字金璧,以魏黃初七年秋九月二日生,至太和三年春三月遭厲氣夭折,年四歲,時在京師。
南部君第二女字悪藥,以魏太和二年冬十有一月廿六日生,至五年秋八月十九日遭疾夭折,亦年四歲,時在都尉官舍。
南部君第三女字君壽,以魏太和六年秋九月十七日生,至青龍二年秋七月十三日遭疾夭折,年三歲,時在都尉官舍。
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 2015年に洛陽で出土した三国時代墓誌だが、墓主の姓は不明。墓主の諱は陵、字は子皐。貫籍は天水郡冀県。祖父・伯父・父の官歴を記録しているが、その諱を記録していない。肝心の墓主当人の閲歴を記録した部分の欠損が激しく判読不能という残念な墓誌である。しかし幼くして夭逝した三人の娘の記録がしっかりしているのには、愛を感じる。
 封号の南部君だが、南部といえば、後漢三国の用法では郡の南部を指すことが多い。やや飛躍した連想でいえば、匈奴の南部五骨都侯との関係を考えるのも面白いか。
 天水冀人というと、『三国志』では楊阜と姜維が知られているが、六朝では尹氏もまた有力である。そのへんの伝世史料と結び付けて考えるのも限界があり、既知の歴史と未知の過去の境界を撫でるだけである。

陳慶之は頑張りすぎたという話

 陳慶之の北伐について、以前Twでテキトーに語った(騙った)ログまとめ。
 元顥を立てて北伐したときの陳慶之は7000人ほどを率いてたことになってる。実数が正しいかどうかは分からないけど、陳慶之の将軍号の「飈勇将軍」は『隋書』百官志上の序列を見る限り、あまり高くなさそうなのは分かる。


 梁武としてもあまり本気ではなかったし、予想外に健闘しすぎて、後詰めも追いつかなかったのだろう。

 北魏の亡命皇族をテキトーに立てて、格の低い将軍をテキトーにあてがうのは本気とはいえない。陳慶之は頑張りすぎたのだ。

 梁武が北伐に本気出したときは自前の皇族将軍を総大将に立ててるんだが、愛息の蕭綜が寝返ったトラウマというのがあってな。梁武が次に本気出すには侯景が降った後の蕭淵明の北伐まで待つことになる。

 陳慶之の北伐時に征北大将軍の蕭淵藻は渦陽にいたというこの圧倒的距離感。うむ、後詰めには遠すぎる。

 527年(梁の大通元年、北魏の孝昌3年)の彭群・王弁による山東方面への北伐のほうが規模が大きいし、羊侃をはじめとする泰山羊氏の帰降を受けたという点でも後に繋がった感。『魏書』鹿悆伝のいう7万が本当かは知らんが。

 元顥のほうに求心力があれば、また別の展開もあったかも知れないけど、そちらはさっぱりだったし。守りに入ったときに1万に満たない軍勢で洛陽を維持できるわけないんだね。

 陳慶之の北伐で洛陽を陥落させられたのは、六鎮の乱で北魏が混乱していたからという説明は間違いではないのだが、この時期には六鎮の乱はほぼ終息していて、爾朱氏の権勢が拡大していく時期であるというのはいちおう押さえておきたい。河陰の変のほうが洛陽でのショックは大きかったのではないかなあ。

どうして肉を食わないのか

 『晋書』孝恵帝紀に「及天下荒亂,百姓餓死,帝曰,何不食肉糜」
(天下が混乱し、民衆が餓死するにおよんで、恵帝は「どうして肉粥を食わないのか」といった)
とあるのはそれなりに知られているが、

 『金史』世宗紀に「遼主聞民間乏食,謂何不食乾腊」
(遼主は民間に食が乏しいと聞いて、どうして干し肉を食わないのかといった)
とあるのはまず知られていない。遼(契丹)のどの皇帝による発言なのかはっきりしないうえに、金のプロパガンダ臭も抜きがたいので、取り上げる価値もないのかもしれない。