梁の武帝の愉快な囲碁仲間たち

 梁の武帝蕭衍は囲碁が大好きで、夜から朝方までやめなかったと言われています。
「高祖性好棊,每從夜達旦不輟」(『梁書』陳慶之伝)
 そのワザマエはプロ級でした。
「六藝備閑,棊登逸品」(『南史』梁本紀中)
 そんな武帝囲碁仲間はどんな人物たちだったのでしょうか。

 棋譜を取ってその優劣を公表していた柳惲
「惲善奕棊,帝毎敕侍坐,仍令定棊譜,第其優劣」(『梁書』柳惲伝)「梁武帝好弈棊,使惲品定棊譜,登格者二百七十八人,第其優劣,為棊品三卷。惲為第二焉」(『南史』柳惲伝)
 夕方から朝方まで武帝と対局していた到漑
「漑素謹厚,特被高祖賞接,毎與對棊,從夕達旦」(『梁書』到漑伝)
 対局に夢中で冠を焼いてしまった陸雲公
「雲公善弈棊,常夜侍御坐,武冠觸燭火,高祖笑謂曰,燭燒卿貂」(『梁書』陸雲公伝)
 弓射と囲碁と酒がトモダチな王瞻
「高祖毎稱瞻有三術,射、棊、酒也」(『梁書』王瞻伝)
 『平家物語』冒頭の悪役の朱异
「异博解多藝,圍碁上品」(『南史』朱异伝)
 韋黯といった人々です。
「漑弈棊入第六品,常與朱异、韋黯於御坐校棊比勢,復局不差一道」(『南史』到漑伝)
 あまりにも若かった陸瓊も含めていいかもしれません。
「大同末,雲公受梁武帝詔校定棊品,到漑、朱异以下竝集,瓊時年八歳,於客前覆局,由是京師號曰神童。异言之武帝,有勑召見,瓊風神警亮,進退詳審,帝甚異之」(『陳書』陸瓊伝)

 なお、碁に関する著書を持っていた息子の蕭綱
「棊品五卷,彈棊譜一卷」(『南史』梁本紀下)
 山中の宰相こと陶弘景囲碁仲間だった可能性があります。
「善琴棊,工草隸」(『梁書』陶弘景伝)
 直接武帝とは面会していないと思われる司馬申囲碁を通じて到漑や朱异と繋がっています。
「十四便善弈棊,嘗隨父候吏部尚書到漑,時梁州刺史陰子春、領軍朱异在焉」(『陳書』司馬申伝)
 文学や仏教に対する注目の影に隠れてはいるもののの、こうした囲碁サロンも貴族たちを繋ぐ文化装置として梁の武帝の長期政権を支えていたのでしょう。

「竟陵八友」を疑う

 『梁書武帝紀上に「竟陵王子良開西邸,招文學,高祖與沈約、謝朓、王融、蕭琛、范雲、任昉、陸倕等並遊焉,號曰八友」とあり、『南史』梁本紀上に「竟陵王子良開西邸,招文學,帝與沈約、謝朓、王融、蕭琛、范雲、任昉、陸倕等並游焉,號曰八友」とある。南朝斉の竟陵王蕭子良が開いた西邸の文学サロンに蕭衍(のちの梁の武帝)・沈約・謝朓・王融・蕭琛・范雲・任昉・陸倕の8人が集った「竟陵八友」の出典である。『梁書』沈約伝に「時竟陵王亦招士,約與蘭陵蕭琛、琅邪王融、陳郡謝朓、南鄉范雲、樂安任昉等皆遊焉,當世號為得人」とあるのなども、その傍証となるであろう。

 『梁書』や『南史』が西邸サロンと八友の記述に比較的熱心であるのに対して、『南斉書』は冷淡である。同書の劉絵伝に「永明末,京邑人士盛為文章談義,皆湊竟陵王西邸」と見える程度である。同書の何昌㝢伝に「永明元年,竟陵王子良表置友、學官」とあり、同書の謝𤅢伝に「永明初,高選友、學,以顥為竟陵王友」とあり、西暦483年に竟陵王蕭子良の下に「友」の官が置かれ、謝𤅢の兄の謝顥が「竟陵王友」となっていることが知れる。なお蕭子良の「友」となったことが伝に明確なのはこの謝顥のみであり、かれは「八友」に数えられていない。唐の丘丹『経湛長史草堂』に「至齊竟陵王友江淹,亦有繼作」とあり、江淹が竟陵王友となったように見えるが、これは根拠が判然としない。いずれにせよ、この江淹も「八友」に数えられていない。「八友」でない者が「竟陵王友」となっており、「八友」が「竟陵王友」となったことは史料上裏付けられないのだ。「八友」とは梁代に武帝のもとに集った高官・文学者たちの箔つけのための後付けの名数ではないか。それに武帝自身が含まれているのも、露骨な話ではないか。

 さて、ここで上記の論が諸侯王の官である「友」にこだわり過ぎて、「友」を厳格に解釈しすぎているのではないかという反論を想定しよう。「八友」は「竟陵王友」の官とは関係がないのだとしよう。それならば、以下の伝に見えるような王僧孺・孔休源・江革・范縝・王亮・宗夬らが「八友」に数えられなかった理由を考えていただきたい。いっぽう蕭子良との関係がはっきりしない謝朓・蕭琛が「八友」に数えられているのも不可解だ。
梁書』王僧孺伝
「司徒竟陵王子良開西邸招文學,僧孺亦遊焉」「初,僧孺與樂安任昉遇竟陵王西邸,以文學友會」
梁書』孔休源伝
「琅邪王融雅相友善,乃薦之於司徒竟陵王,為西邸學士」
梁書』江革伝
「司徒竟陵王聞其名,引為西邸學士」
梁書』范縝伝
「于時竟陵王子良盛招賓客,縝亦預焉」「初,縝在齊世,嘗侍竟陵王子良」
梁書』王亮伝
「齊竟陵王子良開西邸,延才俊以為士林館,使工圖畫其像,亮亦預焉」
梁書』宗夬伝
「齊司徒竟陵王集學士於西邸,並見圖畫,夬亦預焉」

中国の幕府

史記』建元以来侯者年表に「給事大将軍幕府」という役職についた人物が何人か見える。
「杜延年,以故御史大夫杜周子,給事大將軍幕府」
「燕倉,以故大將軍幕府軍吏發謀反者騎將軍上官安罪有功」
「楊敞,家在華陰,故給事大將軍幕府,稍遷至大司農,為御史大夫
「蔡義,家在溫,故師受韓詩,為博士,給事大將軍幕府,為杜城門候」
「邴吉,家在魯,本以治獄為御史屬,給事大將軍幕府」
この役職は大将軍幕府に給事するとも読むことができるし、前漢の中葉には大将軍の幕府があったのだろう。

史記』李将軍列伝や『漢書』李広伝に「莫府」というものが見える。これについて『漢書』の注は二つの説を引いている。ひとつは晋灼の説で「将軍職は征行にあると居処が定まらなかったので、所在を治とし、このため莫府と言ったのである。莫とは大である」というもの。もうひとつはある人の説で、「衛青が匈奴を征討し、大勝利をおさめた。幕中府で大将軍に就任したので、莫府といい、莫府の名はここに始まるのである」というもの。顔師古は「二説はみな非である。莫府とは、軍幕を意味する。古字では莫と幕が通用していただけである。軍旅ではとどまる常居がなかったので、帳幕を莫府と言ったのである。廉頗と李牧は市租をみな幕府に入れていた。これはつまり衛青によって莫府の号が始まったわけではないということだ。また莫を大と読むのでは、意味が乖離している」と主張した。

なお顔師古の説は『史記』李牧伝に「以便宜置吏,市租皆輸入莫府,為士卒費」とあることを踏まえているが、廉頗についてはこれが見えない。中国における幕府は戦国時代後期に現れたと言ってよいのか。あるいはより慎重に前漢中期以降に現れたとみなすほうがよいのだろうか。

名状しがたき中国史

 始皇三十七年、秦の始皇が最後の東方巡行に向かい、長江の渡しから海上に入り、北は琅邪に上陸した。このとき始皇は海神と戦う夢を見たが、この夢を占った博士はこれを「悪神」であると断言した。非凡なる始皇は之罘で海神の徒である巨魚を射殺したと伝わるが、その帰途に平原津で病に倒れ、沙丘平台で死去した。

 『呂氏春秋』孟冬紀に「荊人は鬼を畏れ、越人は禨を信ず」というように、邪神を信奉する深き者どもは多く中国南方で活動していたことが見える。

 周の武王の娘で陳の胡公にとついだ大姫は怪異の巫女であり、鬼神を祭るのを好み、陳人は彼女に教化されて、国に淫祀が多かったという。

 元朝はあらゆる宗教に寛容だったことで知られるが、邪神の信仰もまた広がりを見せ、忽都答児・忽都帖木児・忽都魯・忽都不花など、旧支配者の名を冠した人物たちが王朝の中枢にすら食い込んでいたのである。

 夏王朝の時代に著されたと噂される『螺湮城本伝』(ルルイエ異本)は正史の芸文志や経籍志に見えない。マルコ・ポーロが西伝したとされる原テクストについても不明な点が多い。『螺湮城本伝』を引いたとされる『山海経』海内西経には螺湮城(ルルイエ)が沈む位置を示す「昆侖の南の淵は深さ三百仞」という記述がある。

 2世紀に成立したとされる『玄君七章秘経』(フサンの七秘聖典)もやはり原典はすでに失われている。諸書の引用から判断するに、その巻一には黄帝の発明と医術、またその死者復活術について。巻二には食屍鬼の儀式と信仰について。巻三には天鬼について。巻四には地鬼と地震の関係について。巻五には中国南方沿岸の深き者どもとその人類信徒、時間と空間、ティンダロスの猟犬と遼丹について。巻六には中央アジアのレン高原と未知なるカダスについて。巻七にはナイアーラトテップとその無数の形態、ルルイエの上昇とクトゥルフの再臨、始まりと終わりをその身に宿すアザトース、神霊と生物の理想の形態について、それぞれ記されていたともいう。

 今日は4月1日ということで、ついぞ語られることのなかった歴史の深奥の一部をお話ししました。おや?……誰か来たようですね。いあ、いあ……。

兵馬俑を製作した陶工の名

 円城塔の連作短編小説『文字渦』に始皇帝兵馬俑を製作した陶工についてフィクショナルなことが書かれていたりしますが、実際にはそうした陶工について、兵馬俑本体に刻まれるかたちで80人ほどの名が判明しております。
第一類:「宮」+名パターン
宮疆、宮得、宮朝、宮欬、宮丙、宮蔵などで、「宮水」という秦中央のレンガ焼造の役所に所属していた人々です。
第二類:「右」+名もしくは「大」+名パターン
右亥、大遫などで、「右司空」や「大匠」といったこれまた秦中央の役所に所属していた人々です。
第三類:地名+名パターン
咸陽衣、咸陽危、咸陽野、咸陽賜、咸陽午、咸陽笥、咸陽高、咸陽秸、咸慶、咸処、咸行、咸路、咸敬、咸文忌、咸木、檪陽生、檪陽重、臨晋䓙、安邑口などで、「咸陽(咸)」「檪陽」「臨晋」「安邑」といった出身地名とともに名が残っている人々です。
第四類:それ以外
越、三庚、甲丁など、上記にあてはまらない人々です。

始皇帝はいった「東南に天子の気がある」と

 初唐成立の『南史』宋本紀上に「皇考墓在丹徒之候山,其地秦史所謂曲阿丹徒間有天子氣者也」(宋の武帝劉裕の父の劉翹の墓が丹徒県の候山にあった。その地は『秦史』のいうところの曲阿と丹徒のあいだで、天子の気のあったところである)という一節があります。この下りの『秦史』がまず問題ですが、そうした書題のテキストは近代の彭友生や王蘧常の著作まで下らなければ知られていません。これがもし『史記』の秦本紀や始皇本紀などを指しているのだとしても、『史記』の現行本には「曲阿丹徒間有天子氣者也」というそのままの記述は存在しないのです。劉裕の出自を神聖化するこの記述には、何か元ネタがあるのでしょうか。
 南朝梁に成った『宋書』符瑞志上に「秦始皇帝曰,東南有天子氣。於是東遊以厭之」(秦の始皇帝は「東南に天子の気がある」といった。このため東遊してこれを祓わせた)とあります。これについては後に述べますが、『史記』や『漢書』の記述をもとにしています。
 同じく符瑞志に「初,秦始皇東巡,濟江。望氣者云,五百年後,江東有天子氣出於吳,而金陵之地,有王者之勢。於是秦始皇乃改金陵曰秣陵,鑿北山以絕其勢」(かつて秦の始皇が東巡して長江を渡った。望気者は「五百年後、江東に天子の気があって呉より出る。そのため金陵の地には、王者の勢がある」といった。このため秦の始皇は金陵を秣陵と改めて、北山を穿ってその勢を絶たせた)とあります。始皇帝が長江を渡った東巡は紀元前210年のことで、その「五百年後」は西暦290年ごろとなり、西晋のこととなります。しかしこの「予言」が意図しているのは、孫呉東晋のことで、金陵=建業(建康)を都とする六朝の正統性をオカルト的に補完することでしょう。

 北魏の『水経注』泿水注に「秦時占氣者言,南方有天子氣,始皇發民鑿破此岡,地中出血」(秦のとき、占気者が「南方に天子の気がある」といった。始皇が民を徴発してこの丘を穿ち破らせると、地中から血が出た)とあります。東南が「南方」となっているほか、地中の出血など怪奇色が強まっています。
 『後漢書』郡国志劉昭注は干宝『搜神記』を引いて、「秦始皇東巡,望氣者云,五百年後,江東有天子氣」(秦の始皇が東巡し、望気者は「五百年後、江東に天子の気がある」といった)とあります。始皇東巡と「五百年後」「江東有天子氣」が結びついたのは、東晋のころだったのでしょうか。

 そろそろ「予言」の原型に迫らなくてはなりません。『漢書』高帝紀に「秦始皇帝嘗曰「東南有天子氣」,於是東游以猒當之」とあり、『史記』高祖本紀に「秦始皇帝常曰「東南有天子氣」,於是因東游以厭之」とあるのがそれです。多少の異同はあるものの「五百年後」も「江東」も「曲阿丹徒間」も出てきません。漢の高祖劉邦の本紀で扱われていることでもお気づきかもしれませんが、原型では「東南」は沛県を「天子氣」は劉邦の登極を示唆しているのです。

 ここまで時代をさかのぼりながら見てきましたが、順回しに見ていけば時代をまたぐ複数の人々が話を膨らませながら予言を都合よく再利用している姿も見えてくるでしょう。

 さて、ここまでスルーしてきた「天子氣」とは具体的にどんなものなのかですが、望気者ならぬ常人にはよく分かりません。一説には「五色雲」として現れるものらしいです。

『人口の中国史』批判その2

読了したので、
https://nagaichi.hatenablog.com/entry/2020/09/18/084005
のつづきです。

p.57「西暦一世紀に王朝が西北部に遠征しなくなったことは」
 班超の存在が無視されていますね。

p.64「後漢よりも晋朝の版図は縮小し、東北部や西北部、内陸部が抜け落ちている」
 『晋書』地理志上の平州の条には、「統縣二十六,戸一萬八千一百」とあり、同じく涼州の条には、「統郡八,縣四十六,戸三萬七百」とあります。西晋初期の時点で東北部の遼寧や西北部の甘粛の数字が抜け落ちていることのほうに、疑問を入れないといけないのではないですかね。

p.74「安禄山の出自は、西域の交易をになったサマルカンドのソグド人」
 安禄山はソグド人の父と突厥人の母のあいだに生まれていて、出生地は営州あるいはモンゴリアの大きく二説があります。実父の姓が「康」なので、父方が康国=サマルカンド出身なのではないかと言われているだけです。安禄山本人は実母の再婚相手の姓を名乗っているくらいなので、実父のルーツかもしれないサマルカンドにも関わりは薄かったのではないでしょうか。

pp.92-93「一二一一年に金朝を攻略してマンチュリアと華北の大半をその版図に加え」
 1211年のモンゴルの対金戦は居庸関を落として中都を攻撃したとか、群牧監を襲って馬を略奪したとか、そのレベルではなかったですかね。対金戦の最初の年で、攻略はそこまで進んでいません。大雑把な流れを示したいだけであれば、ここでは1234年の金滅亡の年を挙げるべきだったのではないでしょうか。1211年はp.90にも出てくるわけですし。

p.156「一七二七年には烏蒙土知府に対して、再三にわたって土司の公印を差し出すように命じたが、いうことを聞かなかったために、兵を派遣して制圧したうえに、いくつもの罪状を並べて、土知府を廃絶して地方官が治める威寧州に改めている」
 烏蒙府の改土帰流の話ですが、『清史稿』地理志二十一によると、烏蒙府は雍正九年(1731年)に昭通府と改められています。同書地理志二十二によると、康熙三年(1664年)に烏撒府が廃止されて威寧府と改められ、雍正七年(1729年)に威寧府は威寧州に降格しています。烏蒙府と威寧州は全く別の土地です。烏蒙府と烏撒府を勘違いでもしたのでしょうかね。

 全体としておかしなところは序章から第二章までに集中しており、本書のメインともいうべき第三章以降はさすがに重厚で素人批判を受け付けるようなところは少なそうです。だからといって第三章から読めとも勧めづらいので、前段の手を抜かないでほしいものです。