韓王信は代王となったのか問題

 近刊の渡邉義浩『漢帝国 400年の興亡』(中公新書)p.23に「韓王信を代王として、国に封建する」と書かれています。古くは西嶋定生秦漢帝国』(講談社学術文庫)pp.187-188に「高祖の六年(前二〇一)、すなわち高祖が天下を統一した翌年のこと、韓王信は代王に封ぜられて晋陽(太原市)に移された。その年九月、匈奴はこの地に侵攻して、韓王信を馬邑(山西省朔県東北)に包囲し、韓王信は匈奴に降伏した」とも書かれています。
 韓王信が代王を称したのは、はたして自明なことなのでしょうか?

 『史記』高祖本紀の漢二年の条では、「更立韓太尉信為韓王」(さらに韓の太尉の信を立てて韓王とした)とあります。同高祖五年正月甲午の条では、「故韓王信為韓王,都陽翟」(もとの韓王の信が韓王となり、陽翟を都とした)とあります。同六年十二月の条には、「徙韓王信太原」(韓王信を太原に徙した)とあります。同七年の条には、「匈奴攻韓王信馬邑,信因與謀反太原」(匈奴が韓王信を馬邑に攻め、信はこのためにともに太原で反乱を図った)とあります。

 『史記』秦楚之際月表によると、漢二年十一月に「韓王信,始漢立之」(韓王信、始めて漢がこれを立てる)とあり、同月表の高祖五年正月に「韓王信徙王代,都馬邑」(韓王信が代に王として徙され、都を馬邑とした)とあります。「徙王代」の解釈もさることながら、韓王信の徙封時期を高祖五年正月とすることや、都を馬邑とすることなど問題があることがわかります。

 『史記』漢興以来諸侯王年表では、高祖二年の代の項に「十一月,初王韓信元年。都馬邑」(十一月、初めて韓信を王とし、元年とする。馬邑を都とした)とあります。ただやはりこの記述は信頼できないと見えて、この部分について『史記集解』は徐広を引いて「本紀と表は高祖が立って五年で始めて信を徙したとする」と注記しています。いや、この注の「五年」も問題はあるのですけれども。同年表の高祖五年の代の項に「四 降匈奴,國除為郡」(韓王信の四年、匈奴に降り、国は除かれて郡となった)とあります。やはりこの年代も他史料との矛盾が大きすぎ、信用すべきでないでしょう。

 『史記』韓王信伝では、「漢二年,韓信略定韓十餘城。漢王至河南,韓信急擊韓王昌陽城。昌降,漢王迺立韓信為韓王」(漢二年、韓信は韓の十数城をほぼ平定した。漢王が河南にやってくると、韓信は急いで項羽の任命した韓王の鄭昌を陽城に攻撃した。鄭昌が降伏すると、漢王はすなわち韓信を韓王として立てた)とあります。
三年に滎陽で楚に降ったり、また漢に逃げ戻ってきたりした後に、「五年春,遂與剖符為韓王,王潁川」(五年春、割符が与えられて韓王となり,潁川に王となった)といいます。潁川郡の郡治が陽翟県ですので、高祖本紀の記述とも整合します。翌年春には「迺詔徙韓王信王太原以北,備禦胡,都晉陽」(すなわち詔により韓王信を太原以北の王として徙し、胡に備えて防御させ、晋陽を都とした)。やはり都は晋陽です。同年の「秋,匈奴冒頓大圍信,信數使使胡求和解。漢發兵救之,疑信數閒使,有二心,使人責讓信。信恐誅,因與匈奴約共攻漢,反,以馬邑降胡,擊太原」(秋、匈奴冒頓単于が信を大包囲し、信はたびたび使者を胡に派遣して和解を求めさせた。漢は兵を発してこれを救おうとしたが、信がたびたび間使を送っているのを疑って、二心あるものと人を送って信を責めさせた。信は殺されるのを恐れて、匈奴とともに漢を攻める約束を交わし、そむいた。馬邑をもって胡に降り、太原を攻撃した)。

 『漢書』韓王信伝は『史記』韓王信伝とほぼ同じ内容なのですが、ひとつ無視できない記述があります。六年春のところに「乃更以太原郡為韓國,徙信以備胡,都晉陽。」(そこでさらに太原郡を韓国とし、信を徙して胡に備えさせ、晋陽を都とした)とあることです。韓王信の徙封先の太原郡を韓国としたということは、韓王信は代王と封号を改めていないことになるからです。『漢書』高帝紀の高帝六年正月壬子の条にも「以太原郡三十一縣為韓國,徙韓王信都晉陽」(太原郡三十一県を韓国とし、韓王信の都を晋陽に移した)とあります。『漢書』では一貫して韓王信は太原徙封後も韓王のままなのです。

 諸史料間に矛盾はありますが、明らかに信憑性の低い『史記』漢興以来諸侯王年表の記述を除けば、漢二年(紀元前205年)に韓太尉の韓信が韓王を称して漢王劉邦に追認され、高祖五年(紀元前202年)に皇帝となった劉邦により韓王に封建されて陽翟に都を置き、六年(紀元前201年)に韓王のまま太原郡に徙封され、同年のうちに匈奴に降ったというアウトラインが見えてくるのではないでしょうか。韓王信が代王を称した事実は全くなかったと思われます。徙封先の都も太原郡の晋陽であって、雁門郡の馬邑ではなかったとみるのが、蓋然性が高そうです。

 韓王信が代王に封ぜられたという見解は、信用すべきでない『史記』漢興以来諸侯王年表の記述を信用し、同書秦楚之際月表の「徙王代」を誤解釈したことから発生したものとみなすべきでしょう。

始皇帝に仕えたベトナム人

秦が六国を併呑し、秦王が皇帝と称した。ときに我が交趾郡慈廉県の人である李翁仲は、身長が二丈三尺あった。若いときに郷邑に赴いて力役を供したことがあったが、長官に笞打たれた。そのため秦に入国して仕え、司隷校尉にのぼった。始皇帝が天下を得ると、翁仲に命じて兵を率い臨洮を守らせた。翁仲の名声は匈奴にも鳴り響いたが、老いて郷里に帰り、亡くなった。始皇帝は翁仲を特別視して、銅を鋳造してその像を作らせ、咸陽の司馬門に置いた。その腹の中に数十人を収容して、像を揺り動かすと、匈奴は校尉が生きているものとみなして、あえて侵犯しなかった。

唐の趙昌が交州都護となると、夜ごとに翁仲と『春秋左氏伝』を講義する夢を見た。そのため趙昌は翁仲の旧宅を訪ねると、旧宅が現存していたので、祠を立てて祭をとりおこなった。高駢が南詔を破ったとき、翁仲の霊が現れてその征戦を助けた。高駢は翁仲の祠の建物を改修し、木の立像を彫って李校尉と呼んだ。その神祠は慈廉県の瑞香社にあった。

大越史記全書』外紀巻之一

 

 

全体として荒唐無稽なところが多く、あまり信用できないエピソードではある。細かいことをいえば、秦代に司隷校尉という官があったかどうかは疑問である。漢代の司隷は秦代には内史と呼ばれていた。

臨洮の地名や銅像を作ったくだりは始皇帝の十二金人を思い起こさせる。十二金人をめぐる異説のひとつと位置づけるべきかもしれない。

八達と八愷

『晋書』宗室伝の「(司馬)孚の長兄の朗は字を伯達といい、宣帝は字を仲達といい、孚の弟の馗は字を季達といい、恂は字を顕達といい、進は字を恵達といい、通は字を雅達といい、敏は字を幼達といい、ともに名を知られた。故に時に号して八達とするのはこれである」で知られる「司馬八達」。

『春秋左氏伝』文公十八年の「むかし高陽氏に才子八人があった。蒼舒、隤敳、檮戭、大臨、尨降、庭堅、仲容、叔達」のいわゆる「八愷」が元ネタと思われる。叔達だけ「達」がついているのがご愛敬。

魯国の中の魯国

史記』高祖功臣侯者年表および『漢書』高恵高后文功臣表によると、奚涓は舎人として劉邦の沛での起兵に従った。咸陽に入ると郎となり、漢に入ると将軍として諸侯を平定した。魯侯に封じられ、4800戸の食邑を得た。漢初のうちに軍中で戦没したらしい。功績は樊噲に匹敵したといい、高祖劉邦の功臣としては7位に列せられている。奚涓には男子がいなかったため、母の疵(底)が魯侯に封じられた。

というようなあたりは、てぃーえすさんがとっくに言及していて、劉疵墓との関係まで言及されていたりするわけだが。
https://t-s.hatenablog.com/entry/20081222/1229952800

さてさて、『漢書』地理志下の魯国の節に「もとの秦の薛郡が高后元年に魯国になった」と割注があり、『漢書』高恵高后文功臣表に「高后二年、(宣平)侯(張)偃が魯王になった」とある。高后元年(紀元前187年)だか高后二年(紀元前186年)だかに、張敖と魯元公主の子の張偃が魯王となり、魯国が成立していることになる。

史記』高祖功臣侯者年表によると、奚涓の母の疵は高后五年(紀元前183年)に死去しているので、張偃の魯王国と疵の魯侯国が併存していた期間があることになる。もちろん張偃の魯王国は郡クラスの王国であり、疵の魯侯国は県クラスの侯国であるので、併存そのものに問題があるわけではない。ただ魯国の中に魯国がある入れ子構造は、漢代郡国制下に発生した面白現象であるなあと、感嘆きわみないわけである。後世の史料に魯郡魯県を見ても何も面白くないので、神は細部に宿るのである。

geocities.jpの消滅

ジオシティーズのサービス終了にともない、移転が確認できた中国史サイトは次の2つのみ。
中国歴史世界
http://tongjian88.com/
光武帝建武二十八星宿
http://liuxiu.web.fc2.com/

やはり粛清されたサイトが多く、アーカイブを掘るしかないのである。
小説で学ぶ世界史と中国歴史
https://web.archive.org/web/20190331081514/http://www.geocities.jp/shokatusei/
サイキの穹廬[ゲル]
https://web.archive.org/web/20190330184723/http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/2887/
劉秀様にはかなうまい
https://web.archive.org/web/20181105042413/http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/5079/
中国近代史研究
https://web.archive.org/web/20190330095801/http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/7906/

長安の植物園

 扶荔宮は上林苑の中にあった。漢の武帝の元鼎六年に南越を破ると、扶茘宮を建てて、得られた奇草異木を植えた。菖蒲(ショウブ)が百本、山薑(ゲットウ)が十本、甘蕉(サトウキビ)が十二本、留求子(シクンシ)が十本、桂(モクセイ)が百本あり、密香(アクイラリア・シネンシス)と指甲花(ホウセンカ)が百本あった。龍眼(リュウガン)・荔枝(レイシ)・檳榔(ビンロウ)・橄欖(カンラン)・千歳子(フジ属)・柑橘(ミカン属)はそれぞれ百本あった。気候が南北で異なるため、歳時を経ると多くは枯れてしまった。荔枝については交趾から百株を庭に移植し、ひとつも生えるものがなかったが、連年移植してやめなかった。数年後、たまたま一株がいくらか成長し、花や実をつけることはなかったが、武帝はこれを大切にした。ある朝に枯死し、守吏で連座して処刑される者が数十人におよんで、再び蒔かれることはなかった。歳貢によって庭園は維持されたが、植物を運ぶ者がたびたび道中で過労死し、民衆の苦難の種になっていた。後漢の安帝のときにいたって、交趾郡守の唐羌がその弊害を上奏して、ようやく奇草異木の歳貢は廃止された。(『三輔黄図』巻3) 

 

 なお、扶荔宮は上林苑の中にあったとする『三輔黄図』の記述は誤りで、実際には左馮翊夏陽県(現在の陝西省韓城市芝川鎮の南)にあったらしい。

代王嘉はなぜ代王を称したのか

 戦国時代の末期に趙嘉という人物がいる。趙の悼襄王の長男として生まれ、太子に立てられたが、異母弟の趙遷に太子位を奪われた。悼襄王の死後に趙遷が即位して趙の幽繆王となった(『史記』趙世家悼襄王九年の条)が、紀元前228年に秦の将軍の王翦が趙の都の邯鄲を陥落させる(『史記』秦始皇本紀始皇十八年および十九年の条)と、幽繆王は捕らえられた。このとき趙嘉は代の地に逃れて、自立して王を称した。趙嘉は代王嘉と史称される。代王嘉の政権は紀元前222年に秦の将軍王賁に攻め滅ぼされる(『史記』秦始皇本紀始皇二十五年の条)まで続く。趙の亡命政権として位置づけられる。

 代王嘉についての史料は多くないので、本当に代王を称したのか疑えなくもない。戦国時代の例でいえば、史料上で趙を邯鄲、魏を梁、韓を鄭と記述した例があるように、地名による他称である可能性もある。自称は趙王であったが、代王と他称されたとする考えである。ただ史料的根拠に乏しい以上、この疑念も袋小路でしかない。趙嘉は代王を自称したのだと仮定しておこう。幽繆王が房陵に流されて生存していたために、趙嘉も趙王を称するのを遠慮したのかもしれない。としても、なぜ代王を称したのか。

 戦国時代の趙にとって「代」とは何だったのかを考えてみたい。

 春秋時代の諸侯国に代国があった。「代郡城は、北狄の代国」(『史記正義』匈奴列伝)というから、狄(翟)族系の国であったらしい。春秋晋の趙襄子のとき、趙襄子の姉が先代の代王の夫人としてとついでいた。紀元前457年、趙襄子は代王を宴会に招待し、その場で騙し討ちにして代国を奪った。趙襄子の姉はこれを聞いて自殺している。代にはあらたに趙伯魯の子の趙周が封じられた。これが代成君である。趙伯魯は趙襄子の兄で、早死していたので、その子が君として封じられたものである(『史記』趙世家趙襄子元年の条)

 この代成君の子の浣が趙襄子の太子として立てられ、趙襄子の死後に即位して趙の献侯となっている(『史記』趙世家趙襄子十三年の条)。趙の献侯は中牟を都としたが、趙襄子の弟の趙桓子が献侯を追放して代で自立している。趙桓子は1年で死去し、献侯が復位する。献侯の子の烈侯は「代からやってきた」(『史記』趙世家烈侯六年の条)といわれている。趙の武霊王のとき、武霊王は「代相趙固」を燕に派遣した(『史記』趙世家武霊王十八年の条)とあるので、このときに趙の封侯・封君としての代国は存在したのではないか。武霊王は子の恵文王に位を譲ったが、長子の趙章を代の安陽君とし(『史記』趙世家恵文王三年の条)、さらに趙を二分して代王としようとした(『史記』趙世家恵文王四年の条)。趙国二分は実現せず、趙章は反乱を起こして不幸な結果に終わっているが、ここでも戦国趙における代の重要性が分かる。

 ここまでのところをみると、戦国趙における代には封侯・封君の存在をうかがわせるところがあり、趙氏の庶子が封じられる例が少なくなかったのではないか。戦国末期に趙嘉が代王を称したのも、そうした背景が考えられるのである。