またまた禰軍墓誌について

百済人将軍「袮軍」の墓誌に記された日本という国名
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_03_10.htm
などいくつかのサイトからうちの記事にリンク貼っていただいたおかげで、日本古代史方面からもお客が来られているようです。
亭主は中国史の分野でも趣味の好事家にすぎませんし、日本の古代史にいたっては知見が全くないので、的外れなところもあるかもしれませんが、
「禰軍墓誌」「禰軍墓誌再び」に続く、第3弾の記事を上げて、こんどは私見らしきものを披露したいと思います。

まずは本題ですが、墓誌文中の「于時日本餘噍據扶桑以逋誅」の「日本」が国号かどうかの議論です。この「日本」が国号ではなく、日の昇る方角の東方を意味することばで、この場合には百済の残党を指しているのではないかとする意見があるようです。確かにこの「日本」が国号であるとは限らないのですが、「日本」=日の昇る方角とみなすのは、あまりに日本ローカルな観念すぎないかという気がします。日本国号は中国からみた東方という意味で作られた国号ですが、日本国号以前にそのような意味で「日本」が使われていたのでしょうか?漢文中で「日本」が東方を意味するものとして使われている用例がもしあれば教えていただきたいです。できれば唐代以前のもので。日本国号成立の議論から転倒したアプリオリが発生しているように思えてなりません。

次に「顯慶五年」についてです。この年(西暦660年)は百済滅亡の年であり、この紀年で「日本餘噍」のところまで読んでいるかたがおられます。この読み方では、百済滅亡の年に日本軍が逃げたように書かれるのはおかしいということになり、自動的にこの「日本」は国号ではないという意見となります。私見ですが、「顯慶五年」は「聖上嘉嘆擢以榮班授右武衛滻川府析衝都尉」までしかかかっていません。「官軍平本藩日見機識變杖劍知歸似由余之出戎如金磾之入漢」と言っていますが、この年に官軍(=唐軍)が本藩(=百済)を平定したことで、(西戎を出て秦に帰順した)由余のように、あるいは(匈奴から漢に入った)金日磾のように、禰軍は唐に帰順したとされるわけです。唐の高宗が禰軍を右武衛滻川府析衝都尉に抜擢したことを書いているところまでがおそらく西暦660年のことです。「于時」のところで年次は飛んでおり、「日本餘噍據扶桑以逋誅」を西暦663年の白村江の戦いの後と読むことも可能になります。中国の墓誌の中には紀年を細かく書くものもあるのですが、そうでないものもあります。禰軍墓誌には紀年が5カ所しかなく、明らかに後者です。この手の墓誌や列伝などは、大体時系列で叙述されており、紀年を書かないものは叙事記述で年次を判断するしかありません。年次を切らないと、「左戎衛郎將」の位を受けたのも、「右領軍衛中郎將兼檢校熊津都督府司馬」に転出したのも、西暦660年ということになってしまいますし、そんなことはほぼ間違いなくありえません。

墓誌は美文を選ぶものではありますが、東方をわざわざ日本と呼ぶ用例を見ない以上、現時点ではむしろ国号である可能性のほうが高いかなという判断をしています。あるいは「于時日本餘噍據扶桑以逋誅」の切り方を変えて「時日に于いて本餘の噍、扶桑に據りて以て誅を逋る」とか妙な切り方をすれば、また別の読み方ができるかもしれませんが、それは採らないこととします。