楚国の名称の由来

武大教授羅運環:清華簡掲示楚国名称由来(荊楚網)
http://news.cnhubei.com/hbrb/hbrbsglk/hbrb06/201203/t2006804.shtml

このブログでも何回か取り上げてきた「清華大学蔵戦国竹簡」ですが、そのうちの一篇である「楚居」が楚国の名称の由来となるエピソードを記載しているそうです。
楚の先君穴熊(鬻熊)の妻の妣厲が子の麗季(熊麗)を産んだとき、難産のため「剖腹」(帝王切開)して麗季を産んだのですが、母の妣厲のほうは亡くなってしまいました。妣厲の死後に、巫師が荊条(いばらのひも)で遺体を包んで埋葬したそうです。この国母を記念して、後代の人が自らの国を「楚」(いばら)と呼んだとのこと。
もちろん戦国時代の楚にそういう伝説が残っていたということを示すだけで、そのとおりの故事が実際にあったことを保障するものではありません。古典で楚国のことを「荊」と呼ぶことがわりとあったりしますが、いばらな挿話があったんですね。