隋代の江都について注目すべきこと

1.南朝の陳が滅ぼされ、建康が廃城となったこと。589年に南朝の陳が滅ぼされ、南朝の人士の多くは長安に連行された。『隋書』五行志下に「及陳亡、建康為墟」というように、六朝の都だった建康のインフラは徹底的な破壊を受けたと考えられる。
2.589年に江都郡に揚州が置かれ、揚州総管府が置かれたこと。揚州の中心が丹陽郡(建康)から江都郡に移ったことを意味する。
3.594年、江総が江都で死去したこと。旧南朝の人士の一部は江都に流入していたと考えられる。
4.煬帝の江都への3度の行幸。605年-606年、610年-611年、616年-死去まで。江都は煬帝南朝趣味、文人趣味にかなった土地柄であり、特に愛好された。煬帝の最後の行幸は、高句麗遠征の失敗と、河南・山東での民衆叛乱の続発とに嫌気が差した煬帝の政治的逃避でもあった。
5.大運河(通済渠と山陽涜)の開通により、洛陽と江都が水路で結ばれたこと。
6.江都宮が建造されたこと。張衡が煬帝に江都宮の建造を命じられる。ただし江都宮監の権限は江都郡丞の王世充に奪われることとなる。
7.618年、煬帝が江都で宇文化及に殺害されたこと。
8.619年、江都が李子通に占拠されたこと。

といったような見通しを立ててみた。江都は建康の代替都市として、短い繁栄を楽しんだような気がする唐代以降はまた凡庸な地方都市に戻ったと言ってみる