「首都で見る中国史」を批判する
首都で見る中国史(nix in desertis)
http://blog.livedoor.jp/dg_law/archives/51982509.html
DG-Law氏の記事です。昨今歴史叙述が専門化・蛸壺化する傾向にあり、通史的にものを語れるというのはわりと貴重で尊敬に値するとは思うのですが、あまりに雑な文章で見るに耐えないので、批判させていただきます。
時代順にいきます。
▼まず「西周も秦も元々は西方系の異民族であった」と言っていますが、「西方系の民族」というならともかく、この「西方系の異民族」とは何でしょうね。異民族とは、自民族に対する他の民族か、ある民族に対する他の民族の意味しかありませんが、ここでは後者の意味でしょう。そのある民族とはなんでしょうね。漢民族?まだ成立していませんよね。それとも華夏族でも想定しているのでしょうか?このかたの術語に対する鈍感さというのが、端的に見えるところなので、些細ではありますがまずは突かせていただきました。
▼さて、西周の豊邑・鎬京が「故地に近いところを首都とした」というのは、岐山南麓の周原から豊邑・鎬京はそう大きく離れていませんから、まあこれは説としていいでしょう。問題は記事の追記のほうで、「西周→東周」の成周遷都を「異民族の侵入による強制的な遷都」に分類されていることです。これは犬戎の鎬京侵入を指しているのだと思います。ところがこの犬戎の侵入が原因で成周遷都が起こったとするのは、かなり古い説でして、最近では西周の携王と東周の平王という二王分立の時代があったとするのが通説になっています。西周の携王が鎬京で即位し、対抗する東周の平王が成周(洛邑)で即位した図です。携王を支持する諸侯(西虢など)がわりと陝西のほうに、平王を支持する諸侯(晋、鄭、東虢など)がわりと河南山西方面に位置していたことが、首都を決定したとも言えます。犬戎の侵入というのも幽王の敗死を招いてはいますが、これも申侯に手を貸したものであり、もともと周王朝内部のゴタゴタなわけです。
▼「前漢の場合も,劉邦の根拠地が蜀にあり,蜀から中原に出たら最初の大都市は長安,というのに過ぎない。」これは項羽による十八王分封において劉邦が漢中王に封じられたことをふまえて言っていると思いますが、漢中って蜀だったのですか?正確を期するなら劉邦はこのとき巴と蜀と漢中の王なので、蜀も含まれてはいるのですが、都は南鄭(漢中)なので、「根拠地が蜀」と言ってしまうのはとても乱暴です。また前漢が長安に都を定めた事情については、群臣の中に洛陽首都論が強く、劉邦もその気だったものを、婁敬と張良の議論によってくつがえしたことが知られています。佐藤武敏『長安』(講談社学術文庫)P39-43などをご覧ください。
▼「後漢が洛陽を選択した理由は,いろいろあって長安が荒廃したからに過ぎないと思われる。」西暦26年正月に長安の宮殿は赤眉に焼かれてますね。しかし光武帝が洛陽を都に定めたのは西暦25年10月のことなので、この説明では時間前後してますよ。
▼記事の追記のほう、「西晋→東晋」の遷都をまた「異民族の侵入による強制的な遷都」に分類しています。五胡十六国の争乱の契機をつくった諸民族は永嘉の乱で突如侵入したわけではなく、それ以前から中国内地に移住していたものです。
「特に後漢時代から中国内地に活発に移住するようになる。匈奴をはじめとして烏桓(烏丸)・鮮卑・羌・氐などの民族が中国に流入し、定住していくのである」三崎良章『五胡十六国』(東方書店)P5
五胡十六国の争乱を「異民族の侵入」と説明してしまうのはわりとポピュラーな誤解テンプレです。
▼「長江流域の農業開発が進み,江南(長江下流域)がいつの間にか華北をこえる経済中心地になっていった。」六朝時代に江南の開発が進んだのは確かですが、「華北をこえる」とするのはちょっと早すぎでしょう。
▼「隋唐:長安」「洛陽から遷都。」はい嘘です。隋・唐は西魏・北周を継承した王朝で、先行する王朝の時代から首都は長安に置かれており、洛陽から遷都した事実はありません。長安の城自体は隋の大興城建設で位置が少し変わっていますけどね。
洛陽についていうと、隋唐の時代には東都と呼ばれて、一種の副首都でした。煬帝は200万人も動員して洛陽城を工事していて、わりと本気で洛陽を首都にしようとしていたと思われます。武則天が武周を建てると、東都を神都と改めて、いっとき本当の首都になったこともあります。
▼「中原と江南だけは節度使の設置を防いで長安政府の統治下に置いていた」
魏博節度使とか昭義軍節度使とか宣武軍節度使とか忠武軍節度使とか、あれ中原じゃないんですかね。江南は浙西観察使とか宣歙観察使とかいるけど、節度使じゃないからいいのかな。
▼「唐の長安は安史の乱に乗じてウイグルやら吐蕃(チベット系)やらが占領していたし。」
吐蕃はともかくウイグルに長安が占領されたとは知りませんでした。ぜひとも詳細が知りたいですね。
▼「政治的意味合いがほとんど無いのに経済的意味合いだけで首都が選ばれた」
戦国魏の大梁があった地について「政治的意味合いがほとんど無い」のですか。唐末の宣武軍節度使も後梁も後晋も後漢も後周も「政治的意味合いがほとんど無い」のですね。
「中国歴代の首都で最も歴史的に新しいのは,実は開封ではなかろうか」ですと。
Wikipedia程度ですら「中国でも最も歴史が古い都市の一つ」とちゃんと書いているというのに、何を調べてこんなことを言い出したのでしょう。
▼「わざわざ南京を外した理由はよくわからない。」
単に危険だったからでは。宗弼が長江を渡ったときは、杭州すら放棄して海上に逃れてますよね、宋の高宗は。
▼「しかし『農耕地帯だから現住地よりも豊かだろ』と思って攻め行ったら,さして豊かでもなかったという。」
こういうのを引いておきましょう。
「中原に移住した女真人は、二十年もたたないうちに早くも惰弱化し、貧窮化しつつあった。かれらは国家の保護に慣れ、漢文明に惑溺して、怠惰奢侈に流れ、与えられた土地の耕作に努めず、漢人に小作させて遊食し、やがては給与地を手離さねばならなくなるものもあり、農耕技術の拙劣のために貧窮に陥るものもあった。」周藤吉之・中嶋敏『五代と宋の興亡』(講談社学術文庫)P362
「移住した女真人には土地を支給し、平常は農耕に従事し、交代で辺境・国都・州県の警備にあたらせました。しかし女真人らはしだいに上流漢人の風俗にならい、土地の耕作を漢人の小作人にまかせて、奢侈・遊惰な生活を送るようになりました。」堀敏一『中国通史』(講談社学術文庫)P269
▼「おまけに食わせるために南宋から食糧を輸入せねばならず,その規模が南宋に課した貢納の額を超えており,完全に入超であった。」
宋金間の交易で食糧というのは聞かないですね。ソースをお願いします。茶とか銭とか絹とかではないんですか。
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/128652/1/ecc0011_001.pdf
▼「北京に首都を設置した」
陳高華著・佐竹靖彦訳『元の大都 マルコ・ポーロ時代の北京』(中公新書)P47-48あたりを読むと、大都(北京)はむしろ南に位置していたのだというのが分かったりします。大都建設のはじまった1267年はもちろん南宋が存続していたころなんですよね。
▼「明は唯一華南から立って中華を統一した王朝。」
朱元璋の起兵した安徽省濠州を華南と呼ぶのはかなり微妙だというのはさておき、「北方民族が原因で北京に遷都」というのは、靖難の変が原因です。本当にありがとうございました。
▼「女真族の王朝なので,これも故地に近い北京に置くのは当然である。」女真族は満洲族に名を改めていることは無視なのですか。個人的には旗人王朝と呼んでほしいなあというのはさておき。←これは無視して構いません。
▼「北伐そのものは広州から始まったが,蒋介石による中華民国の首都は再び南京である。一応北伐は北京征服まで続けられたものの,遷都と言えるような権力の移動は無かった。」この説明では、北伐の完成を待たずに、張作霖の安国軍政府は消え失せたかのようですねw。北伐の途中に武漢国民政府(1927年1月)というのもあったはずですが、これも無視ですかね。
▼「この中国史首都論はオリジナルではなく,昔からある説である。」そうは思えないですけど、もしネタ本があれば後学のために教えていただければありがたいです。