『史記』において始皇帝の母は趙姫とは呼ばれていない。

秦始皇本紀では「呂不韋姬」「太后」と呼ばれ、呂不韋列伝では「邯鄲諸姬」「姬」「子楚夫人」「太后」と呼ばれている。「趙姬」はひとつもない。「趙姬」と呼称したのは後世の史称にすぎない。
この場合の「趙」というのも、彼女本人が趙の出身であるとか、趙氏であるとかいう意味ではなく、婚家の秦の姓のほうが趙氏なのである。
「姬」というのも、日本語の「ひめ」の意味はない。漢語としての「姬」(姫)には、1.めかけ、2.貴婦人、3.周王室の姓の意味があるが、この場合は2.の意味。
ということで、趙高が始皇帝の母(趙姫)の縁者というのは附会なんじゃないかと個人的には思っている。