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ラオスの歴史#ラーオ族前史Wikipedia

紀元前1000年頃には西安の北西にムアン・ルン、現在の重慶の位置にムアン・パー、長沙近辺にムアン・ギャオという都市国家を作っており、周の皇帝がムアン・パーに使節を派遣したことなどが記されている[2]。その後紀元前853年にはタタール族が北方より侵出を始め、ラーオ族はムアン・ルンを破棄しムアン・パーへ移住している。その後周によりムアン・パーも攻撃を受け、ムアン・ギャオへと移った。

以下、中国史オタ(素人)の意見。「ムアン・パー」が巴国を指しているのは分かるんだけど、「西安の北西にムアン・ルン」「長沙近辺にムアン・ギャオ」ってどこなんだろう。気になる。

紀元前215年には秦によりムアン・ギャオも攻撃を受けたため、ラーオ族はさらに南下し、現在の雲南省・保山近辺にムアン・ペーガイという都市国家を新しく形成した。紀元前110年ごろ、前漢武帝は仏教の経典調査団をインドへ派遣しようとしていたが、ムアン・ペーガイの初代国王クン・メンはこの使節団のムアン・ペーガイ通過を許可しなかった為、ムアン・ペーガイと前漢との対立が勃発した。この対立は約7年間続いたが、紀元前87年にムアン・ペーガイは滅亡する。9年にクン・メンの子孫にあたるクン・ワンによりムアン・ペーガイ独立が宣言されたが、これも長くは持たず、50年に後漢により再び滅ぼされた。

雲南省保山ということは、「ムアン・ペーガイ」は哀牢国でしょうかね。前漢武帝の話は夜郎国っぽいですし、夜郎国=哀牢国って考えかしらん。紀元前215年ってのも何?誰かおせーて。