楊素の祖先

Wikipedia楊震の項。件のルーツの人が加筆したと見られる部分はやはりイタさがにじみ出ている。

弘農楊氏のその後
楊彪の少子である楊脩以来は不詳だが、楊震の末子の楊奉の孫である楊衆(父は楊專文という)、楊奇、楊亮の世襲を経て、遥か後世になって楊亮の末孫とされる北周の柱国だった楊敷、そしてその子で隋の大臣であり、越石公の楊素・楊玄感父子は『隋書』によると弘農郡華陰県の人で名門だったという。つまり、この楊父子が楊震の末裔の可能性が高いともいわれる。または楊震の長男の楊牧は楊統、楊馥の二子がいた。楊統の子に楊琦がおり、その子孫が楊素ともいわれるが真偽は不明である。

「弘農楊氏のその後」なんて記事を、「楊震」の記事に立てるくらいなら、「弘農楊氏」をきちんと立ててくれと思うのは、ここの人たちと同意見。
この記事の信頼性は、ノートにも指摘出ているね。

後漢書楊震伝では、楊奉−楊敷−楊衆ですので「楊專文」ではないようです。同じく楊牧の孫は楊奇です。この記事は信頼性が低いのではないでしょうか。

ルーツの人は「楊素」の項でも同じことを書いてるんだなあ。

楊素の出生と弘農楊氏
楊素の先祖は定説では不詳だが、遠祖とされる楊震の末子の楊奉の孫である楊衆(父は楊專文という)、楊奇、楊亮の世襲を経て、遥か後世になって楊亮の末孫とされる北周の柱国の楊敷、そしてその子の楊素は『隋書』によると弘農郡華陰県の人で名門だったとされる。つまり、楊素が楊震の末裔の可能性が高いともいわれる。または楊震の長男の楊牧は楊統、楊馥の二子がいた。楊統の子に楊琦がおり、その子孫が楊素ともいわれるが真偽は不明である。

隋の楊素がわりかし好きなあっしとしては、だんだん許せなくなってきたぞ(笑)。なにが「定説では不詳」だ。以下、楊素の祖先関係の記述を拾ってみようと思う。

さてまず『隋書』巻48列伝第13の楊素伝を引こう。

楊素は字を處道といい、弘農華陰の人である。祖父の楊暄は北魏の輔国将軍・諫議大夫。父の楊敷は、北周の汾州刺史で斉で没した。(後略)

ついで『北史』巻41列伝第29の楊敷伝。

楊敷は字を文衍といい、楊播の族孫である。高祖父の楊暉は、洛州刺史で、恒農公を追贈され、諡を簡といった。曾祖父の楊恩は、河間太守。祖父の楊鈞は、博学で物覚えがよく、たいへん才覚があって、七兵尚書・北道行台・恒州刺史・懐朔鎮将に位し、侍中・司空公を追贈され、臨貞県伯に追封され、諡を恭といった。父の楊暄は、字を宣和といい、性格はほがらかで、物覚えがよく学問があった。諫議大夫に位し、広陽王元深が葛栄を討つのに別将として従って、害に遇い、殿中尚書・華州刺史を追贈された。楊敷は…(中略)…天和年間、汾州刺史となり、爵位を進めて公となった。北斉の将の段孝先が衆を率いて来寇すると、城は陥落して捕らえられた。北斉の人はかれを任用しようとしたが、楊敷は屈せず、鄴で憂憤のうちに没した。子は楊素。

『周書』巻34列伝第26の楊敷伝。

楊敷は字を文衍といい、華山公楊寛の兄の子である。父の楊暄は、字を景和といった。性格はほがらかで、物知りで学問があった。二十歳で奉朝請に任ぜられ、員外散騎侍郎・華州別駕・尚書右中兵郎中・輔国将軍・諫議大夫を歴任した。北魏の広陽王元深が葛栄を討つのに別将として従い、葛栄のために害された。殿中尚書華夏二州諸軍事・鎮西将軍・華州刺史を追贈された。(後略)

ここまでで楊暉−楊恩−楊鈞−楊暄−楊敷−楊素の系譜が確認できると思う。
羅新・葉煒『新出魏晋南北朝墓志疏証』から楊素墓誌

(前略)十世の祖の楊瑤は、晋の侍中・儀同三司・尚書令。高祖父の楊恩は、河間内史。曾祖父の楊鈞は、侍中・七兵尚書・北道大行□□□刺史・司空・臨貞文恭公を歴任した。祖父の楊暄は、度支尚書・華州刺史・臨貞忠公。父の楊旉は、中書□□□卿・開府儀同三司・汾州刺史・大将軍・淮魯復三州刺史・臨貞忠壮公…(後略)

新唐書』巻71下表11下宰相世系1下。

楊氏は姫姓より出て、周の宣王の子の尚父が封ぜられて楊侯となった。…(思いっきり中略)…楊宝は字を稚淵といった。二子は、楊震・楊衡。楊震は字を伯起といい、太尉となった。五子は、楊牧・楊里・楊秉・楊譲・楊奉。楊牧は字を孟信といい、荊州刺史・富波侯となった。二子は、楊統・楊馥。十世の孫は楊孚で、楊孚の六世の孫は楊渠で、楊渠は楊鉉を生み、燕の北平郡守となった。楊元寿を生み、後魏(北魏)の武川鎮司馬となり、楊恵嘏を生んだ。(後略)

楊恵嘏の子孫の系譜が隋の皇帝(文帝楊堅煬帝楊広ら)につながっていく。いろいろあって現在の史学ではこの系譜は信用されていないけどもね。隋の帝室が弘農楊氏を称しているのはそういうこと。
同じく『新唐書』巻71。

越公房はもとは中山の相の楊結の次子の楊継から出た。楊暉を生み、洛州刺史となり、諡を簡といった。河間太守楊恩を生み、楊恩は越恭公楊鈞を生んで、越公房と号した。(以下は、表)/楊鈞、恒州刺史、越恭公。/楊暄は字を宣和といい、西魏の度支尚書。/楊敷は字を文衍といい、後周(北周)の汾州刺史・臨貞壮武公。/楊素は字を處道といい、隋の尚書令・司徒・楚景武公。/楊玄奨は、清河公/(後略)

中山の相の楊結とは誰かということになるけど、同じく『新唐書』巻71。これで引用は最後。

太尉楊震の子の楊奉は、字は季叔といい、後漢の城門校尉・中書侍郎となった。八世の孫の楊結は、慕容氏に仕えて中山の相となった。二子は、楊珍・楊継。

楊震楊奉…………楊結−楊継−楊暉−楊恩−楊鈞−楊暄−楊敷−楊素という系譜になるわけね。もちろん正史を突き合わせればの話。信用できるかどうかは別問題。ここまでつきあってくれたかたはご苦労さまで。なんてクダクダしい文章だと思われたろうけど、真面目にやったら本当はもっとクダクダしいことになるはずで。そこまでやっても、本当のところの信憑性は分からないから、ルーツ話は嫌いよ。
もし『新唐書』宰相世系の信頼性を高く見積もるなら、楊素・楊玄感父子の祖先は楊震楊奉ということになる。しかし楊亮の子孫かどうかは分からない。さらに楊牧の子孫説は支持する理由が見当たらないわけで。なんで附記してあるのか、訳が分からない。
まあ『新唐書』宰相世系は批判が多いんだけどね。楊恩〜楊素あたりは墓誌にもあるし、複数の正史でも確認できるので、そのへんの親族関係はある程度確かといえるかも。

さて、もう少し本質的な批判をしておく。百科事典で歴史人物について執筆するなら、歴史人物の親族関係など四の次、五の次の話で、その人物が何をしたのか、どう評価されているのかを書くのがまず重要。そこらへんからまず勘違いしてるから、ルーツの人はいかんのよ。でたらめな説をでたらめな出典で糊塗するのはもっといけないけど。
ちなみに評価も自分だけの感想や評価を書いちゃだめだよ。