李密墓誌

さて、予告通り『唐代墓誌匯編続集』所収の李密墓誌について。
『全唐文』巻141に魏徴による「唐故邢国公李密墓誌銘」が収録されていて、伝世のものだったりするわけですが、出土した「唐上柱國邢國公李君之墓銘」とはかなり異同があったりします。
『全唐文』所収のほうはこちらの下のほう。残念ながら簡体字テキスト。
出土したほうを起こしてみようかと思いましたが、あまりの美辞麗句ぶりに脱力して挫折。
それでもはじめのほうだけ。

唐上柱國邢國公李君之墓銘
□昔天造草昧之初,有聖經綸之始,原鹿逐而猶走,瞻烏飛而未宣,必有異人間出,命世挺生,負問鼎之雄圖,鬱拔山之壯氣,控御英傑,鞭撻區宇,志逸風飈,勢傾海岳,或一丸請封函谷,或八千以割鴻溝,或夏殷資而興亡,或楚漢由其輕重,懋功隳乎既立,奇策敗於垂成,仰龍門以摧鱗,望天池而墜翼,求之前載,亦何世無其人!公諱密,隴西成紀人也。

墓誌は基本的に生前の人物を美化してるものだけど、本人の名が出てくるまでにこれだけいらんこと書いてる墓誌ってのも珍しいですよ。『全唐文』所収のものと文章が微妙に違うことを感じ取っていただけたら幸いです。後のほうになると、もっと違いが際だつんだけども。

美辞麗句にはあまり興味がないので、もう少し実質的なところで。

粤以武德二年歳次二月庚子朔十六日乙卯,葬於黎陽縣之西南五里之平原。故吏上柱國使持節黎陽總管殷衛澶四州諸軍事黎州刺史曹國公徐世勣、上柱國臨賀縣開國公柳德乂、上柱國陽武縣開國公□□、上柱國聞喜縣開國公杜才幹等,或同嬰世網,或共渉艱辛,或感意氣於一言,或託風雲於千載。

このあたり李密の葬られた年月日が断定されていたり、李密に近しくともに唐に降った人々が見えてきたりします。かれらの武徳二年(619)当時の官位・爵位も見えてきますね。徐世勣(李勣)なんかコテコテしてますね。

以下、『全唐文』所収のものと出土のものと共通の話ですが、僕がまず李密墓誌に思うことは、なんでこいつ「隴西成紀の人」にされてるんだ?って疑問です。正史ではことごとく「遼東襄平の人」のハズなんですが。唐室と同根ってことにしたかったのか?そういや李密と同族の女性である李麗儀の墓誌(『新出魏晋南北朝墓志疏証』所収「崔仲方妻李麗儀墓誌」)あたりでは、「其先趙國人也」だし、なんかややこしい事情があるのかもしれません。
あと、最後のほうに「長男は楚に喪い、少女は秦に留む。」ってあることは、やっぱり李密にも息子や娘がいたのですね。長男は夭逝したっぽいけど。
感想はこれくらい。あまりに虚飾過剰な誌文なので読めていない部分もあるかも。