『アルタン・トプチ』冒頭

さて、モンゴル史書『アルタン・トプチ』のさわりだけ。いつもながらテキトーで無保証な超訳
朱風・賈敬顔訳『漢訳蒙古黄金史綱』(内蒙古人民出版社)より。

インドの劫初の祖は大三末多王である。その子は光妙。その子は善帝。その子は静斎。その子は頂生。かれは四瞻部洲を主宰する金転輪王である。その子は妙帝。かれは三部洲を主宰する銀転輪王である。その子は近妙。かれは二部洲を主宰する銅転輪王である。その子は善妙。かれは一部洲を主宰する鉄転輪王である。その子は厳妙。この五人は五転輪王として顕揚される。
厳妙の子は舎帝。その子は舎捉。その子は舎固尼。その子は香草王。その子は大香草王。その子は善見王。大三末多王の貴い子孫は甘蔗王となった。その子は善生王。王はまた子孫を増やして多くの王の後たる獅子頬王となった。子は浄飯王、白飯王、斛飯王、甘露飯王。長兄の浄飯王の二子は、長子が仏陀、次子が妙難陀である。仲子の白飯王の二子は、長子が具寿勝、次子が具妙である。叔子の斛飯王の二子は、長子が具寿大名、次子が無天である。季子の甘露飯王の二子は、長子が天授、次子が慶喜である。釈迦牟尼の子は羅睺羅である。羅睺羅は出家したので、浄飯王の一支はこのため跡継ぎが絶えた。ただし諸経典ではあわせて跡継ぎが絶えなかったという。釈迦牟尼仏涅槃後の一千年あまり、大三末多の王族は東方の雪山の周辺に広がった。その顛末は次のような事情である。インドのマガダ国の憍薩羅の子に名を沙爾巴という王がおり、子が五人いた。幼子が生まれたとき、身に青犀色の毛を長く生やしており、手足はみな薄っぺらで、目が下から上にまばたいた。このため「この子はふつうの生まれではない」といって、銅箱の中に入れてガンジス川に捨てた。ネパールとチベットの二国の境界地方に流されて、チベットのいち老人が河辺でこの箱を拾ったところ、開けてみるともとより美しい男の子だったので、抱いてかえって十六歳まで養育した。この子が地勢高峻で風景優美な地方を尋ねさがしたところ、雪山四隅の地を知ることができた。テントを設けるつもりで、そこにやってきたとき、チベット人に出会った。どこから来たのかと問われたので、上空を指さした。チベット人は「この子を上天から授かったのは、わたしたちチベット人に君主がいないからだ」といい、平伏してこの子を擁し帰順した。これがチベット最初の庫諄三塔里図王である。その子は七貴人椅子王である。その子は恰札爾布西巴袞三塔里図王である。その子は愛図爾哈阿爾拜三塔里図王である。その子は庫里庫魯克噶爾波羅爾三塔里図王。その子は袞蘇賓黙林三塔里図王である。その子は大賚蘇賓阿爾灘三塔里図王である。王に三子がおり、長子はボロチュ、次子はシバグチ、末子はボルテチノといった。家族に不和があり、ボルテチノは北のかたテンギス海を渡り、外姓の地方にいたった。コアイ・マラルの乙女をめとって妻とし、外姓の地方に居を定めた。これがモンゴル部落となった。
その子はバタチカンとなった。その子はタマチャとなった。その子はコリチャル・メルゲンとなった。その子はアウジャム・ボロウルとなった。その子はサリ・ハチャウとなった。その子はイェケ・ニドゥンとなった。その子はシム・ソチとなった。その子はサリ・ハルとなった。その子はボルジギタイ・メルゲン。その子はドロゴルチン・バヤン。この人の妻はボロヘイチン・ゴアといった。ドワ・ソコルとドブン・メルゲンのふたりの子を生んだ。

ボルテチノ以後は『元朝秘史』とかなりかぶってますね。チンギス・ハーンの先祖がインドの王様からはじまって、釈迦とも血統がつながっていて、その子孫がチベットを経て漠北にいたりモンゴル部を形成するまでの伝説部分です。そもそも赤子の入った銅箱をガンジス川に捨てて、はるか上流のネパール・チベット境にまで流されるなんてことはまずありえないわけですが、それはそれ伝説時代のことですから。
ここでこんな退屈なチンギス先祖系譜を訳出した理由は、後世のモンゴル人たちがチベット仏教にはまって、チンギス・ハーンのご先祖は釈尊だぜ、チベットにいたこともあったんだぜという系譜を後づけで加上してしまったのがよく分かるからです。