「燭怪」

オール讀物』2007年2月号の田中芳樹「燭怪」ですが、短編としてそれなりでした。「人皇王流転」のときには、もしかして作家・田中芳樹は死んだのか?とファンとしてイタく心配していたので、田中氏らしさ(色)が確認できて良かったです。中国歴史小説としては、『後漢書』方術列伝から拾ってきたよというのと、長安遊学時代の若き劉秀(のちの光武帝)と若き鄧禹(字は仲華)が出てくるというのが注目点ですね。

ネタとして許楊の伝でも超訳してみます。
後漢書』巻82上 方術列伝第72

許楊は、字を偉君といい、汝南郡平輿県の人である。若くして術数を好んだ。王莽が輔政につくと、召されて郎となり、酒泉都尉に累進した。王莽が帝位を簒奪すると、許楊は姓名を変えて巫医者となり、他界(?)に逃げ匿れした。王莽が敗れたとき、ちょうど郷里にかえった。
汝南郡には古くから鴻郤の堤防があり、(前漢の)成帝のとき、丞相の翟方進がこの堤防を壊したことを奏上した。(後漢の)建武年間、汝南太守の鄧晨がこれを修復して功績を上げたいと思っていたが、許楊が水脈に通じていることを聞いて、召し出してこのことを話し合った。許楊は、「むかし成帝は、翟方進の進言を聞きいれてから、まもなく上天のことを夢みられ、天帝が『どうしてわたしの体を洗う淵を壊したのか?』と怒っていいました。こののち民衆は天帝の利益を失い、多くは飢え苦しむようになりました。ときに『わが堤防を壊した翟子威(翟方進)は、わたしの大豆(供え物)を与え、わたしの芋魁(根本)を受け取った。ひっくり返せ、堤防は修復されるべきである。』と俗謡に歌われました。むかし夏の禹は天下の福利のために黄河を治水しました。お役所はいま廃された仕事を起こそうとなさっておられますが、これは国を富ませ民を安んじるもので、わらべうたの歌詞は、このことの予兆でありましょう。願わくは死力を尽くさせていただきたい。」といった。鄧晨はたいそう喜んで、許楊を都水掾に任命して、その仕事をつかさどらせた。許楊は土地の高低の形勢を見極めて、四百里あまりにわたる堤防を着工し、数年にして完成させた。人々はその利便をえて、連年豊作つづきとなった。
かつて、豪族たちは堤防を修復する夫役を負担して、競って在所の功績を自慢したが、許楊はいっこうに聞き入れなかったので、許楊が賄賂を受け取っていると、ともに誣告した。鄧晨は許楊を収監して獄に下したが、そのいましめは自然と解けてしまった。獄吏たちは恐れて、鄧晨に報告した。鄧晨は「しまった、しくじった。ご先祖様にかけて、太守は忠実なものを信じるべきだったのに!」と驚いていった。その夜に許楊を釈放して、帰らせた。ときに天は大いに陰って暗くなり、道には火の光が現れてかれを照らしたので、当時の人は怪異な現象とみなした。許楊は、のちに病没した。鄧晨は都に許楊のための廟を建て、姿かたちを描いておさめた。人々はかれの功績を追慕して、みなかれを神としてまつった。

あ、やっぱうまく訳せないや…。
方術列伝には、高獲(字は敬公)の伝もあるのですが、短いけどしんどいのでやめ。劉秀と旧交があったのはホントみたいですね。