『晋書』にやたらと「乞活」が現れる話

乞活」とは、素直に解釈すると「活きるを乞う」、つまりは「生存を願いもとめる」ということになる。しかし罪人が命乞いをするというようなニュアンスではほとんど使われず、飢饉などで食い詰めた人々が食糧のある土地に移動する行為を指すことが多い。あるいは食を求める流民集団そのものを指す。今回はこの「乞活」の語が『晋書』にやたらと出てくるというお話。中国史上でも混乱した時代には流民集団が登場することは珍しくなく、とくに晋代に流民が多かったというわけでもないだろう。「乞活」という言葉が、「流民」に代わる晋代の流行語だったものと思われる。漢籍電子文献二十四史で「流民」の語を検索すると、『晋書』だけ綺麗に抜けているのが面白い。
以下の引用はすべて『晋書』からである。
巻5帝紀第5
「(永嘉3年冬11月)乞活の帥の李惲・薄盛らが衆を率いて京師を救援すると、劉聡は敗走した。李惲らはまた王弥を新汲で破った。」
巻8帝紀第8
「(永和10年)5月、江西の乞活の郭敞らが陳留内史劉仕を捕らえて叛くと、京師は震駭し、吏部尚書の周閔を中軍将軍とし、中堂に駐屯させ、豫州刺史の謝尚を歴陽から召還して京師を守らせた。」
巻35列伝第5
「そろって乞活の賊の陳午に殺害された。」
巻59列伝第29
「かつて、東嬴公司馬騰が鄴に駐屯したとき、并州の将の田甄・田甄の弟の田蘭・任祉・祁済・李惲・薄盛らの部衆1万人あまりを引き連れて鄴に到着した。食糧を求めて冀州に派遣されたため、乞活と号した。司馬騰が敗れると、田甄らは汲桑を赤橋で迎え撃って破ったので、司馬越は田甄を汲郡太守とし、田蘭を鉅鹿太守とした。田甄が魏郡太守の位を求めたが、司馬越は許さなかったので、田甄は怒って、召還に応じなかった。劉望が渡河すると、田甄は退却した。李惲・薄盛が田蘭を斬って、その衆を率いて降ると、田甄・任祉・祁済は軍を棄てて上党に逃れた。」
巻74列伝第44
「ときに乞活の黄淮が并州刺史を自称し、翟遼とともに長社を攻め、数千人を集めた。桓石民が再び南平太守郭銓と松滋太守王遐之を派遣して黄淮を攻撃し、これを斬ると、翟遼は河北に逃れた。」
巻98列伝第68
「朱瑾の養っていた乞活数百人をことごとく穴埋めにし、妻子を褒賞とした。」
巻104載記第4
乞活の田禋が衆5万を率いて石尟を救援すると、石勒は迎え撃って戦い、田禋を破った。」
巻104載記第4
「(石勒が)乞活の赦亭・田禋を中丘に攻めて、ともにこれを殺した。」
巻104載記第4
「(石勒が)乞活の李惲を上白に攻めて、これを斬ると、その降兵を穴埋めしようとしたので、」
巻104載記第4
「石季龍(石虎)に乞活王平を梁城に襲撃させると、敗れて帰ってきた。」
巻107載記第7
「李農はおそれて、騎兵百人あまりを率いて広宗に逃れ、乞活数万家を率いて上白を保った。」
巻127載記第27
「かつて、苻登が姚興に滅ぼされると、苻登の弟の苻広は部落を率いて慕容徳に降り、冠軍将軍に任じられて、乞活堡に住んだ。」

ちなみに百度百科は「乞活軍」を「五胡十六国時代黄河の南北で活躍した漢族の武装民集団」と定義している。
http://baike.baidu.com/view/759527.htm
乞活の語はほかの時代にも全く出ないわけではないので、ここまで限定してしまうのもどうかとは思う。