骨嵬

『元史』におけるサハリン(樺太アイヌの記録。「骨嵬」はサハリンアイヌ、「吉里迷」はニヴヒ(ギリヤーク)と見る説がもっか有力です。すべて世祖フビライのときの記録です。

『元史』巻5本紀5世祖二

(至元元年(1264)十一月)辛巳、骨嵬を征討した。これに先だって、吉里迷が(元朝に)内附したが、言うにはその国の東に骨嵬と亦里于の両部があり、連年来たって境界を侵すというので、そのためこれを征討したのである。

『元史』巻6本紀6世祖三

(至元二年(1265))三月癸酉、骨嵬国の人が吉里迷部の兵を襲って殺した。勅命により官粟と弓甲をこれ(吉里迷部)に給した。

『元史』巻8本紀8世祖五

(至元十年(1273)九月壬寅)征東招討使の塔匣剌が骨嵬部を征討することを願い出たが、許さなかった。

『元史』巻12本紀12世祖九

(至元二十年(1283)八月)丙辰、骨嵬の軍賦を徴収するのを免除した。

『元史』巻13本紀13世祖十

(至元二十一年(1284)八月)辛亥、征東招討司の聶古帯が「骨嵬を討伐するむねですが帝のご意向があり、骨嵬に進軍して討つにあたって、阿里海牙・朶剌帯・玉典の三軍はみな後詰めとなってもらいましょう。七月の後では、海の風波がかたやちょうど高く、食糧や武器を輸送する船が重いで、不測の事態が起こるおそれがあります。しばらく猶予すべきでしょう」といった。(世祖フビライは)この言に従った。

『元史』巻13本紀13世祖十

(至元二十一年(1284)冬十月)辛酉、征東招討司が兵をもって骨嵬を征討した。

『元史』巻13本紀13世祖十

(至元二十二年(1285)春正月)辛丑、楊兀魯帯を征骨嵬招討使とし、二珠虎符を佩びさせた。

『元史』巻13本紀13世祖十

(至元二十二年(1285)冬十月)征東招討使の塔塔兒帯に詔して、楊兀魯帯に一万人で骨嵬を討たせ、楊兀魯帯に三珠虎符を授け、征東宣慰使都元帥とした。

『元史』巻14本紀14世祖十一

(至元二十三年(1286)冬十月)己酉、塔塔兒帯・楊兀魯帯を派遣して兵一万人・船千艘で骨嵬を征討させた。

追記:06年12月21日、ご指摘を受け、一部訂正。