五代の人多く彦をもって名となす

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彦はもとは美名であり、むかしの人は多くこれを名としたが、五代のときほど多かったことはない。
唐末に宰相の徐彦若がおり、左拾遺の徐彦枢、供奉官の史彦瓊、宦官の支彦勲、魏博の楽彦禎、東川の顧彦朗および弟の顧彦暉、顧彦瑤がいた。
これ多いのは後梁で、鉄槍の王彦章は、人みな知るところである。しかし同時に兵を率いた大将に謝彦章がいた。このほかに滄州の盧廷彦、同州の寇彦卿、鄜州の李彦容、静勝軍の李彦韜(本名は温昭図)、宣義軍の霍彦威がいた。また滄州の盧彦威、左龍武統軍の李彦威(すなわち朱友恭)、都指揮使の楊彦洪、蔡州刺史の王彦温、大将の李彦柔、左天武使の劉彦圭、左僕射押牙の王彦洪、楊劉の守将の安彦之、幽州騎将の高彦章、蔡州軍校の張彦珂、雷満の子の雷彦恭、雷彦雄、雷彦威がいた。
後唐から後晋のあいだには、中書の焦彦賓、供奉官の劉彦瑤、宦官の馬彦珪、伶官の史彦瓊、右監門衛上将軍の王彦璘、兵馬都監の夏彦朗、皇城使の李彦紳、宮苑使の史彦容、遊奕将の李彦暉、龍驤指揮使の姚彦温、馬歩軍使の馬彦超、枢密の李虔徽の客の辺彦温、歩軍指揮使の薬彦稠、戸部尚書の韓彦暉(旧史は暉とし、新史は綠とする)、河中の安彦威、義成の李彦舜、安国の楊彦珣、彰義の張彦沢、昭順の姚彦章、鎮州副使の李彦珂、興元副使の符彦琳、鄚州刺史の白彦球、天平軍副使の李彦贇、河陽行軍司馬の李彦珣、霊州の将の王彦忠、東川の董璋の将の李彦訢、安重栄の将の趙彦之、杜重威の子の杜彦超がいた。
後晋から後漢のあいだには、泰寧の慕容彦超、保大軍の張彦超、徐州の王彦超、同州の張彦贇、知安陽州の苻彦倫、丹州指揮使の高彦珣、如京使の甄彦琦、監軍の楊彦朗、何彦超、先鋒指揮使の史彦超、歩軍指揮使の宋彦筠、河東行軍司馬の張彦威、沂州刺史の房彦儒、汾州刺史の武彦弘、慶州刺史の郭彦欽、登州刺史の郭彦威、鎮州副使の李彦琦、元従都押牙の蘇彦存、後宮都押牙の李彦弼、虢州刺史の常彦卿、徐州守禦使の康彦環、西京判官の時彦澄、保寧軍都頭の劉彦章、安州軍校の武彦和、彰義の張万進の子の張彦球、同州指揮使の成殷の子の成彦璋がいた。
後漢から後周のあいだには、符彦図、符彦超、符彦卿、符彦饒、符彦能がおり、みな符存審の子である。また尚輦奉御の金彦英(もとは高麗人)、監軍の李彦従、内客省使の李彦頵、左衛上将軍の扈彦珂、金吾衛上将軍の張彦成、水部員外郎の韓彦卿、鎮州副使の趙彦鐸がいた。これらはみな新旧五代史にみられる。
このほかに劉守光に将の史彦璋がいた。楊行密に寿州の将の王彦威、軍使の彭彦章がいた。南唐に寿州の大将の劉彦貞、楚州の将の張彦卿、袁州刺史の袁彦章がいた。徐知訓に行酒吏の刁彦能がいた。南漢に大将の伍彦儔、指揮使の曁彦贇、宦者の許彦貞がいた。北漢に遼州刺史の傅廷彦、石州刺史の安彦進がいた。蜀に先鋒使の尚彦暉、招討使の高彦儔、副使の呂彦珂、使介の趙彦韜、客将の王彦球、袁彦超がいた。閩に学士の廖彦若がいた。楚の馬殷のもとに左相の姚彦章、大将の姚彦暉、劉彦韜がおり、朗州に帥の雷彦恭、彦雄がおり、虔州に将の李彦図がいた。さらに遼に鄚州刺史の王彦徽、寰州刺史の趙彦辛、武州刺史の王彦符、牙校の許彦欽がいた。党項にまた拓跋彦昭がおり、威州に拓跋彦昭がいた。回鶻に首領の楊彦詢がいた。南寧蛮に首長の莫彦珠がいた。これまた新旧の五代史に見られる。
宋初にいたっても続いていた。陳橋の兵変のとき、軍校の羅彦、王彦昇というのがいた。のちに龍捷指揮使の趙彦徽、武信軍節度使の崔彦進、歩軍指揮使の靳彦朗、後晋巡検の穆彦璋がいた。北漢を征討したとき、防禦使の張彦進がいた。南漢を討ったとき、部将の冉彦袞がいた。蜀を討ったとき、部将の高彦容、折彦贇がいた。また杜太后の兄の子に杜彦超、杜彦珪、杜彦遵、杜彦鈞、杜彦彬がいた。太宗のときに、供奉官の陳彦詢、崇化副使の閻彦進がいた。并州を討ったときに、尚食使の石彦贇がいた。契丹を討ったときに、沙州観察使の杜彦圭がいた。これまた宋史に見られる。
五代から宋にいたるまで集計すると、名を彦章という者が七人、彦超という者が十一人、彦威という者が七人、彦卿という者が七人、彦進という者が四人、彦温、彦韜という者がおのおの三人、競って模倣しあい、それぞれ彦を名とするのが、一時の流行となった。

清朝考証学ってこういうことなのかあ(笑)。