高居誨の西域行

『新五代史』巻七十四 四夷附録第三

後晋の天福三年(938)、于闐(ホータン)国王李聖天が使者・馬継栄を派遣して紅塩・鬱金・氂牛尾・玉などを献上した。後晋は、供奉官の張匡鄴を仮鴻臚卿とし、彰武軍節度判官の高居誨を判官として派遣して、李聖天を大宝于闐国王として冊封させた。この年の冬十二月、張匡鄴らは霊州から二年かけて于闐にいたり、七年(942)冬にいたって帰還した。高居誨は、その往復したときに見聞した山川・諸国のことを記録した。しかし、李聖天の次の代には通交できなくなった。
  高居誨が記していうには、「霊州から黄河を過ぎ、行くこと三十里、はじめて沙(すな地の砂漠)をわたって党項(タングート)の領土に入った。細腰沙・神點沙という。三公沙にいたり、月支都督帳に宿泊した。これより砂漠を行くこと四百余里。黒堡沙・沙尤広にいたり、ついに沙嶺に登った。沙嶺は、党項の牙城である。その首長を捻崖天子という。白亭河をわたって涼州(武威)にいたり、涼州より西に行くこと五百里、甘州(張掖)にいたった。甘州は、回鶻(ウイグル)の牙城である。その南に、山を百余里いくと、漢の小月支の故地である。別族に鹿角山沙陀と号するものがいて、朱耶(朱邪)氏の遺族であるという。甘州より西のかた、はじめて磧(小石の重なった砂漠)をわたった。磧には水がないので、水を載せて行った。甘州の人が後晋の使者に教えたところでは、馬の蹄を木澀で作り、木澀を四つ敷き、さらに鑿を四つ敷いてこれを綴るように、駱駝の蹄は氂皮で包んで行くべきだという。西北に五百里いって肅州(酒泉)にいたり、金河をわたり、西に百里いって天門関を出た。また西に百里いって玉門関を出て、吐蕃の領土を通過した。吐蕃の男子は中国の帽子をかぶり、婦人は弁髪し、瑟瑟の珠を戴せ、珠のよいものは、ひとつの珠が一頭の良馬と交換されるという。西のかた瓜州・沙州(敦煌)にいたると、二州には中国人が多く、後晋の使者が来たと聞くと、その刺史曹元深らが郊外に出迎え、使者に天子の起居を問うた。瓜州の南十里に鳴沙山があり、一年じゅう雷のごとき音が鳴り響くという。『尚書』禹貢篇のいうところの流沙である。また東南に十里いくと三危山があり、三苗の隠れ住んだところという。その西に、都郷河をわたったところを陽関という。沙州の西は仲雲といい、その牙帳は胡盧磧にある。仲雲というのは、小月支の遺種であり、その人は勇敢で戦闘を好み、瓜州・沙州の人はみなこれをはばかっている。胡盧磧とは、後漢の明帝のときに匈奴を征討するため、吾盧に屯田したが、つまりはその地である。地には水がなく、しかも酷寒多雪で、毎日雪を暖めて解かして、水を得ている。匡鄴らは西に行くこと仲雲の領土に入り、大屯城にいたり、仲雲は宰相四人と都督三十七人を派遣して後晋の使者を出迎え、匡鄴らは詔書をもってこれを慰諭したので、みな東に向かって拝礼した。仲雲の領土より西にいき、はじめて磧をわたった。水がなく、地を掘って湿った砂を得て、人はこれを胸に置いて渇きを止めるのである。また西にいき、陥河をわたった。檉を伐って水中に置いて渡る。そうでないと陥るのである。また西にいき、紺州にいたった。紺州は、于闐の置いた州である。沙州の西南にあり、京師を去ること九千五百里という。また二日行くと安軍州にいたり、ついに于闐に到着した。李聖天の衣冠は中国のもののようであり、その宮殿はみな東に向いていて、金冊殿といい、楼閣があって七鳳楼という。ブドウで酒をつくり、また紫の酒や青い酒がある。どうやって醸造されたものなのか分からないが、たいそう美味である。その食事は、うるち米に蜜をそそいで味付けし、粟に乳酪をそそいで味付けする。その衣服は、布帛である。果樹園に花木がある。俗に鬼神を信仰し仏教も好んでいる。李聖天の住むところでは、紫衣の僧五十人がならんで侍っており、その年を同慶二十九年と号した。その国の東南を銀州・盧州・湄州といい、その南千三百里を玉州といい、漢の張騫が河の源流を極めようと于闐を出て、山に玉多しといったのはこの山であるという。」その河源から出たところ、于闐にいたって三流に分かれる。東は白玉河といい、西は緑玉河といい、さらに西は烏玉河という。三流の河はみな玉があって色が異なり、毎年秋に水が涸れると、国王が河で玉をさらい、その後で国人が玉をさらうことができる。
 霊州から黄河をわたって于闐にいたるまで、しばしば吐蕃族のテントが見られた。于闐はいつも吐蕃とおたがいに攻掠しあっていた。匡鄴らが于闐にいたると、李聖天は吐蕃の非を責め立て、誓約を求めた。匡鄴らが帰還すると、李聖天はまた都督劉再昇を派遣して玉千斤および玉印・降魔杵などを献上した。後漢の乾祐元年(948)、また使者王知鐸を派遣して来朝した。