朝歌は殷の首都なのか

封神演義』に殷の紂王が都とした「朝歌」が頻出するので、殷の最後の都の名は朝歌といったのだと覚えている人もいるかもしれない。「朝歌」は現在の河南省鶴壁市淇県にあたると考えられている。

世界史的あるいは世界遺産的に、もっと有名な殷の首都がある。「殷墟」である。これは20世紀初頭に考古発掘がおこなわれて、殷代後期の宮殿や王墓であったことは出土した甲骨にも裏付けられており、これは動かしようがない。河南省安陽市に位置する。朝歌の位置する鶴壁市とは行政区域的には隣接しているが、別の土地である。今回は殷墟がテーマではないので、詳しく述べないが、「朝歌」≠「殷墟」ということは、読み終わるまで覚えておいてほしい。

さて『史記』楽書に「紂為朝歌北鄙之音,身死國亡」とある。なんと司馬遷史記』の本文には、ここにしか「朝歌」が出てこない。紂王と関係していることは分かるが、朝歌の地位が分からないので、今回の話の役には立たない。殷本紀には盤庚の都の「亳」とか出てくるが、これは殷墟のことである。紂王が朝歌に都したなどとは、殷本紀に全く出てこない。『史記』衛康叔世家に「以武庚殷餘民封康叔為衞君,居河、淇輭故商墟」とあるのが、朝歌の根拠として引かれることがあるくらいである。

経書にも碌な情報はない。『史記』より成立の古い『春秋左氏伝』に「朝歌」が数カ所出てくるが、春秋時代の晋とか衛とか斉などの角逐の話であって、殷の都についての議論の裨益にはならない。『尚書』(『書経』)や『詩経』あたりに言及がありそうでないのが、実にもどかしい。

あとは後世の注釈の世界である。以下にどの程度の信憑性を置くかは、読者に委ねたい。
史記正義』周本紀が『括地志』を引いて「紂都朝歌在衞州東北七十三里朝歌故城是也。本妹邑,殷王武丁始都之」といい、『帝王世紀』を引いて「帝乙復濟河北,徙朝歌,其子紂仍都焉」と言っている。『括地志』のいうように武丁が朝歌に都を置いたのか。『帝王世紀』のいうように帝乙が朝歌に移り、紂王が都を置いたのか。両方を信じるのは困難だが、魏晋以前にも紂都朝歌説(首都説)の存在したことが分かる。この説は史書や経書の注釈をはじめ、小説にまで拡散して、後世的にはもっとも有力だったと言える。『漢書』の注釈者の顔師古が「夏都安邑,殷都朝歌,周都洛陽」といい、「殷都朝歌,即河内也」というなど、常識化されていった。

史記集解』殷本紀が臣瓚『漢書音義』を引いて「鹿臺,臺名,今在朝歌城中」と言っている。魏晋以前から紂王の死んだ鹿台が朝歌城中にあったとされていた。『史記集解』項羽本紀が臣瓚『漢書音義』を引いて、「洹水在今安陽縣北,去朝歌殷都一百五十里。然則此殷虛非朝歌也。汲冢古文曰『盤庚遷于此』,汲冢曰『殷虛南去鄴三十里』。是舊殷虛,然則朝歌非盤庚所遷者」。盤庚が遷都した先の殷墟が、朝歌と別の地であることは、もちろん認識されていたわけだ。

さてややこしい漢文を引くのは最後にしよう。『史記正義』殷本紀が『竹書紀年』を引いて、「自盤庚徙殷至紂之滅二百五十三年,更不徙都。紂時稍大其邑,南距朝歌,北據邯鄲及沙丘,皆為離宮別館」ときたものである。「盤庚が殷(墟)に遷都してから紂王の滅びるまで253年、あらたに遷都することはなかった。紂王のときのいくらか大きい都市に、南方には朝歌、北方には邯鄲や沙丘があって、みな離宮別館であった」と言っているのだ。朝歌離宮説(陪都説)である。『竹書紀年』の史料的出自には曲折があるが、戦国魏の史書であるので、現在参照できる最も古い見解であると言える(だろう)。古い見解であるから正しいと断定できるわけではないが、あまり取りあげられていない説であるからには、あえて強調しておこう。

朝歌は紂王の離宮で、牧野(河南省新郷市)に近かったから、紂王が逃げ込んでそこで死んだのさ!(ひどい)

蛇足。
日本語版Wikipediaの「朝歌」の項は、現在のところ首都説を採っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%AD%8C
対して中国語版Wikipediaの「朝歌」の項は、現在のところ陪都説を採っているようだ。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%AD%8C
Wikiの特質上、今後書き換わる可能性もあるし、全く記述が異なってもどちらが間違いとは、現時点ではいえないが。
回答頑張ってるけど、答えになっていなかったOKWave
http://okwave.jp/qa/q2642355.html
紂都朝歌説が有力なのが分かる一文。
http://qhwhyj.cn/qhwhyj7/News_View.asp?NewsID=29