隋末唐初の乱の諸勢力

隋末唐初の乱の直接の契機は、大業八年(612)に起こった山東・河南を中心とした干魃による凶作と疫病の流行である。むろん、煬帝高句麗遠征や大運河工事の負担といった諸事も、隋朝に対する不満の内圧を大いに高めた要因だが、最初の発端とはいえない。食いつめた民衆が多数現れたことが、実際の発端である。だから山東・河南の諸集団はもっとも先鋭であり、大業年間中葉から早くも跳ね上がった連中である。関中や江南の諸集団は後発であり、大業末年になって反隋に動き出した連中である。動乱の時期にも、もっとも安定していたのは、四川・嶺南地方である。

隴西李氏を中心とした隋の太原留守軍を中核に、関隴集団が参画した。本拠地は太原→長安

  • 魏(瓦崗寨集団)

河南の翟譲集団を中心に、楊玄感の乱の残党(李密)や、隋の河南討捕軍の残党(秦叔宝ら)が加わって瓦崗寨集団を形成した。李密が魏公を称した最盛期には山東・淮北の諸集団の一部も帰服させた。本拠地は洛口倉。

王世充を中心として、隋の旧臣や隋の東都(洛陽)留守軍が参画。本拠地は洛陽。

河北任侠集団(竇建徳)と高句麗遠征の逃兵が中心。やがて山東諸集団が帰服していった。竇建徳が唐のために敗死していったん瓦解するが、劉黒闥が再建。本拠地は楽寿、劉黒闥の再建後は洺州。

宇文化及を中心とした隋の旧臣と、もと煬帝の禁軍集団。もっとも文雅で退廃的だった旧南朝文人らも含む。煬帝の江都逃避に従って江北の地に来たが、禁軍の懐郷の思い強く、煬帝を弑殺。ただただ北への帰還を望んだが、李密の瓦崗寨集団と衝突。最後は竇建徳に吸収された。

董景珍や張綉らが旧南朝梁の後裔の蕭銑を擁立。第二次後梁政権ともいえる。大義名分が分かりやすかったからか、広範な支持を集め、最盛期の影響は湖北・湖南・江西・四川・広東を含む広大な地域に及んだ。いかんせん烏合の衆だった。本拠地は江陵。

操師乞・林士弘ら江南の集団。本拠地は豫章。

李子通ら江北の集団。

杜伏威・輔公祏ら江北の集団。本拠地は歴陽。

朱粲ら。もっとも「盗賊」らしい集団で、本拠地を持たず、山南周辺を移動しながら掠奪を繰り返した。唐の李孝恭に敗れて勢力は消沈、王世充に臣属した。

  • 定揚可汗

劉武周・苑君璋ら。大業末年、反隋に起兵。突厥に従属しながら、勢力を拡大した。最盛期には、唐より太原も奪った。本拠地は馬邑。ちなみに対突厥ということでいえば、李淵や竇建徳らも、表面的には突厥に臣属したのである。

  • 高州総管

馮盎ら嶺南勢力。非漢族の影響力が強かったが、むしろ穏健な立場を持した。

  • 幽州総管

羅芸を中心とした隋の幽州勢力。反隋の(先鋭的すぎる)諸集団と対抗するため、唐の李淵に接近した。