三国のころの坊さんたち

慧皎『高僧伝』より。陳舜臣『秘本三国志』も思いおこされたい。
▼支樓迦讖
また支讖ともいう。もとは月支(月氏)の人。後漢霊帝のときに洛陽に出て、光和・中平年間に梵文経典の翻訳にあたった。『般若道行』『般舟』『首楞嚴』などの三経典を訳した。また『阿闍世王』『宝積』など十余部の経典も訳したが、残存していない。
▼竺仏朔
天竺(インド)の人。後漢霊帝のとき、『道行経』をもたらした。洛陽に来たって梵文の漢訳にあたった。
▼安玄
安息国(パルティア)の人。後漢霊帝末年、洛陽に来たって、功により騎都尉を号した。沙門厳仏調とともに『法鏡経』を訳出した。安玄が梵語で口述し、厳仏調が受けて漢文で筆写した。
▼支曜
後漢霊帝献帝のとき、洛陽にあった。『成具定意』『小本起』などを訳した。
▼安巨
後漢霊帝献帝のとき、洛陽にあった。『問地獄事経』を訳した。
▼康孟詳
後漢霊帝献帝のとき、洛陽にあった。『中本起』『修行本起』を訳した。
▼曇柯迦羅
もとは中天竺の人。家は代々富豪で、ひととおりのインドの学問を修め、『四囲陀論』をよくした。二十五歳のとき、『法勝毘曇』に出会って、理解できないことにショックを受け、さらに猛勉強した。魏の嘉平年間に洛陽に来たった。ときに魏には仏法はあったが、道教風の読みかえがおこなわれており、多くの僧が戒律に帰していなかった。かれが来てからというもの、大いに仏法がおこなわれるようになったという。『僧祇戒心』を訳出した。中華の戒律はかれより始まるといわれる。
▼康僧鎧
外国沙門。魏の嘉平末年、洛陽に来たった。『郁伽長者』など四部の経典を訳出した。
▼曇帝
安息国の沙門。律学をよくした。魏の正元年間、洛陽に来たった。『曇無徳羯磨』を訳出した。
▼帛延
魏の甘露年間、『無量清浄平等覚経』など六部の経典を訳出した。
▼康僧会
先祖は康居の人。代々天竺に住んだ。その父が商人だったので、交趾(ハノイ)に移住した。十余歳のとき出家した。学問を好み、三蔵を理解し、六経に広く通じた。呉の赤烏十年(248)、建業にいたり、孫権と面会した。孫権は感服して、かれのために建初寺を建てさせた。『阿難念弥』『鏡面王』『察微王』『梵皇経』などを訳出した。呉の孫晧は法令苛虐で、淫祀および仏寺を破壊しようとした。孫晧は才弁にすぐれた張昱を派遣して康僧会を詰問させたが、康僧会はこれを論破したという。また孫晧が康僧会を呼んでやりこめようとしたが、できなかったという。孫晧が晋に降ると、まもなく亡くなった。
▼支謙
またの名は越。字は恭明。もとは月支の人。支樓迦讖の学問を受けた支亮(字は紀明)に師事し、広く経典に通じ、六ヵ国語に通じた。長身細身で目玉は黄色く、「支郎は眼中に黄あり。形躯は細しといえども、これ智嚢あり」と称された。後漢献帝末年、乱を避けて呉に移住した。孫権に召されて博士となり、韋曜ら(韋昭)とともに皇太子の輔導にあたった。外域の生まれであるから、呉志に載せられていないのだという。呉の黄武年間から建興年間にかけて、『維摩』『大般泥洹』『法句』『瑞應本起』など四十九経典を訳した。また『無量寿』『中本起』をもとに梵唄をつくり流行らせた。『了本生死経』などに注釈をつけた。
▼維祇難
もとは天竺の人。火祠を奉ずる異教の家に生まれた。出家して沙門となり三蔵の学問を受けて諸国を巡った。呉の黄武三年(224)、竺律炎ととも武昌にいたり、『曇鉢経(法句経)』をもたらした。竺律炎とともにこれを漢文に訳した。