「始皇帝と大兵馬俑展」

とりあえず、頼まれもしないのに(余計なことを)、トゥギャッターにまとめておきました。すみません。
http://togetter.com/li/906997

さて、気を取り直して、以下は個人的すぎる感想です。
▼総じて統一前の文物のほうが興味深かったですね。というか兵馬俑はわりと見飽きた(少数意見)。
▼冒頭の「南宮乎鐘」は、西周金文の刻まれた編鐘でした。もしかすると、銘文中の司徒南宮乎は西周建国の功臣の南宮适の子孫なんでしょうか。そういや曾侯乙墓の中の人は、南宮适の子孫らしいですけど(脱線)。
▼「秦公鐘」は1994-95年の「始皇帝とその時代展」にも来ていたんですね。ところで図録に平勢説が顔を出していたので、二玄社の『中国法書選1甲骨文・金文 殷・周・列国』P130の釈文と比べてみていたんですけど、どこに平勢説が入ってるのか良く分からなかったです。鎛の誤字を鐘に直して、文章を平易化しただけでは。
▼「石鼓文」はなんとなく字が読めるという小並感以外には、4字連なりで現代語訳も『詩経』みたいだなあと思いました。
▼「玉装飾」は欠けているビーズがあるか、紐がもう少し長かったんじゃないでしょうか。あれでは細い人でも腕が通らないと思いました。
▼「玉璋形器」が小さくて可愛らしかったですね。古い玉璋はもっと大きかったはずですが、ミニチュアみたいでした。
▼帯鉤はああいうふうに止めていたのかと。でも次にはまた忘れていそうです。
▼金製品や陶模(レリーフ)を北方遊牧民との関連で語っていたのは良かったです。スキタイとかあのあたりから脈々と受け継がれてる文化だと思いました。獣面紋とか取り入れての中国化もされてますね。
▼地味なとこで、刑徒の「墓誌」は興味深かったです。始皇帝陵の西側の趙背戸村から出土したものですが、字は汚いし、「東武隊贛楡距」の6文字しかない。北魏以降の様式美あふれた墓誌と比べると、あまりにも原初的な代物ですが、これを残した刑徒の境遇を思うと、感慨深いものがあります。類似の墓誌はまだいくつかあるようです。
▼子どものおもちゃの「陶鈴」は当時の風俗がしのばれますね。「魚形陶鈴」が間違いようのないフォルムで素敵です。
▼「小さな先輩」こと戦国秦の小さな俑についてですが、始皇帝陵の俑が石炭紀の昆虫巨大化なみの突然変異インパクトだったというのが分かります。次の時代の比較対象となるべき漢俑が今回なぜか一切来ていなかったので残念ですが、後にも先にもこの一期にしか存在しないのが、始皇帝兵馬俑です。兵馬俑一体一体を作った工人の名前は幾つか判明している筈ですが、兵馬俑製造にあたった工人たちを束ねた知られざるプランナーがいたことが想定されますね。この技術と統制が秦の滅亡に殉じてしまったため、このブレイクスルーは後世に引き継がれずに2000年眠ってしまったのでしょう(適当)。
▼将軍俑のモデルが『史記』に名のある人物だったとしても驚かない。
兵馬俑はそれぞれの個性を持ちつつ、リアルよりややふくよかデフォルメが掛かってると思うのですが、あれを当時も福々しいと認知していたのかどうか。また福々しい人形が明器となる死生観とは何かとか。まあ古代中国の死生観では、死後生は現実の生の延長なので、福々しくて結構なのかもしれませんが。
▼歩兵俑のレプリカがずらずらとあったのですが、いずれも目つきが悪かったですね。実物はもう少し愛嬌のある目つきしてる筈ですから…;;
▼銅車馬のレプリカも実物にあるはずの鈍い光沢が全く出てなくて、乾いた黄土色になっていました。2号銅車馬の「轀輬車」(安車)の中を覗いてみたのですが、シンプルなもので、流雲紋などは描かれていませんでした。あれも本物とはだいぶ違うものだと思います。
兵馬俑の出展数が少ない少ないという声がネットに多いのですが、いつも日本にやって来るのはこんなもんですよ。今回バラエティ重視だったので、重厚感がなかったのかも。
▼2006〜07年の「始皇帝と彩色兵馬俑展」のときと同じく、始皇帝陵のある陝西省文物ばかりだったので、物量的になにかパンチが足りないというところは感じました。図録の内容を見ても、陝西省文物局や陝西省文物交流中心とだけ交渉してたのが見え見えでして。これは東博の調整力(政治力)の不足だろうと。次はぜひ睡虎地秦簡や里耶秦簡持ってきて。あとキングダムブームの終わらないうちに、「〜年相邦呂不韋戈」シリーズでも持ってこれたら、凄い盛り上がりますよ。


人間・始皇帝 (岩波新書)

人間・始皇帝 (岩波新書)

入門秦の始皇帝と兵馬俑 (洋泉社MOOK)

入門秦の始皇帝と兵馬俑 (洋泉社MOOK)

桑乾王ふたり

「桑乾」というと、賈島の「度桑乾」や丁玲の『太陽は桑乾河を照らす』の河が想起されるだろうか。しかし以下は、桑乾河とは直接関連しない南北朝時代の小話である。

『魏書』巻21上献文六王伝上に「曄,字世茂,衍封為桑乾王,拜散騎常侍,卒於秣陵」とある。北魏の咸陽王元禧の子の元曄が南朝梁に亡命して、桑乾王に封ぜられ、秣陵で死去したという記述である。ちなみに北魏の東海王元曄とは別人である。また『梁書』巻56侯景伝に「雲麾將軍桑乾王元頵等據東陽歸順,仍遣元頵及別將李占、趙惠朗下據建德江口」とある。桑乾王元頵らが駐屯していた東陽で侯景から梁朝に帰順し、そのまま東下して建徳江口に駐屯したとの記述だ。この桑乾王元頵は桑乾王元曄との関係は不明だが、やはり北魏東魏の皇族である元氏の出自には違いなかろう。「桑乾王」という封号・王号は、管見の限りこのふたり以外に見られない。6世紀の南朝に特有の王号である。

桑乾は河の名であるとともに、土地の名である。『漢書』巻28下地理志下にみえるように、漢代の代郡に桑乾県が置かれ、これを北魏も踏襲していた。

『魏書』巻66崔亮伝に「及慕容白曜之平三齊,內徙桑乾,為平齊民」とある。北魏の慕容白曜が三斉(山東地域)を平定すると、そこの人民を桑乾に移し、平斉の民としたというのである。同書巻50の慕容白曜伝に「後乃徙二城民望於下館,朝廷置平齊郡,懷寧、歸安二縣以居之」とあるように、このとき平斉郡が置かれたことが分かる。『南斉書』巻28劉善明伝に「五年,青州沒虜,善明母陷北,虜移置桑乾」とあるが、これは同じ事件を南朝側からみた記述である。また『魏書』巻38王慧龍伝に「時制,南人入國者皆葬桑乾」とある。南朝からの帰順者が死去すると、桑乾の地に葬っていたというのである。

宋書』巻95索虜伝に「(天賜)元年,治代郡桑乾縣之平城」とある。代郡桑乾県に北魏の旧都・平城が営まれたような書きぶりである。平城は代郡平城県であるので、これは実際には誤解であるが、南朝側からは「桑乾」が北魏の旧首都圏であるとの印象を漠然と持たれていたのではないか。しかも南朝から北朝に鞍替えした者は「桑乾」に移されるのである。この地名が北魏の中枢と紐付けて観念されたとしても、不思議はない。
南朝梁は北魏の皇族の亡命者である北海王元邕や汝南王元悦を「魏主」(魏帝)に立て、元法僧を「東魏主」に立てるなど、傀儡を求心力とした北進を幾度か試みている。こうした魏主より一段低い「桑乾王」の号を北魏からの亡命皇族のために用意したのも、自然な流れであった。正史に見える元曄や元頵のほかにも、梁の桑乾王がいた可能性はまたありうる。

あざな開山

小ネタです。
嶠字開山」(『晋書』巻75列伝第45「王嶠伝」)
殷嶠字開山」(『旧唐書』巻58列伝第8「殷嶠伝」)
嶠という名の人があざなを開山というとは必ずしも限らないが、あざなを開山という人は名が嶠であるという法則があったりしないか。(正史を検索してお手軽な感想を言うお仕事)

南昌海昏侯墓の発見

http://ex.cssn.cn/lsx/kgx/201511/t20151105_2560206.shtml
http://www.jx.xinhuanet.com/news/focus/2015-11/05/c_1117045911.htm
http://news.xinhuanet.com/shuhua/2015-11/13/c_128424359.htm
http://www.chinatimes.com/cn/realtimenews/20151113004541-260409

江西省南昌市新建区大塘坪郷の墎墩山上で、2000年前の漢墓が発見されたというニュースです。墓の被葬者は前漢の「海昏侯」とその妻です。『漢書』武五子伝に「其封故昌邑王賀為海昏侯,食邑四千戶」とあり、また「元帝即位,復封賀子代宗為海昏侯,傳子至孫」というように、漢の武帝の孫の昌邑王劉賀が廃位後に「海昏侯」となり、劉賀の子の劉代宗とその子孫が海昏侯位を世襲していたことは、以前から知られていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E8%B3%80
今回発見の墓の被葬者が何代目の「海昏侯」なのかは残念ながら分かっていませんが、墓の規模と格式は漢の皇族のものにふさわしい広壮なもののようです。出土の漆器に「昌邑九年」や「昌邑十一年」の文字が見えることも、昌邑王劉賀との関係を裏打ちしています。

さて、江西省文物考古研究所が墎墩山上に古代の墓の盗掘跡があるとの現地の通報を2011年3月23日に受けたのが、今回の発見の発端です。同年4月15日から2015年10月31日にかけて、江西省文物考古研究所が南昌市や新建区の文博単位と合同で組織した考古隊による発掘調査がおこなわれました。5年にわたる発掘調査の成果は多大なもので、出土文物は1万件を超え、その価値は長沙馬王堆漢墓を上回るともささやかれています。
http://www.thepaper.cn/newsDetail_forward_1395463
墓室内から出土した文物は約6000件余。そのうち漆木器は約2300件余、竹簡や木牘は約3000枚余、金属器は約500件余、玉器は約30件余、陶磁器は約100件余、紡織品は5件とのことです。

今回の発見で特筆すべき点として、

1.「南昌」地名の最古の例となる青銅豆が発見されました。
2.出土した五銖銭は200万枚を数え、総量10トンに及んでいます。五銖銭は漢の武帝の時代に初めて鋳造された銅銭ですが、今回の発見で銅銭1000枚を1貫とする計量方式が前漢からあったことが確認されました。
3.主墓の西側には車馬の陪葬坑があり、4匹の馬で引かれる5両の木製の馬車が副葬されていました。4頭立ての馬車は漢代の王侯の最高の配備であり、被葬者の身分の高さを示しています。
4.酒の「蒸留器」らしいものが発見されました
http://news.xinhuanet.com/local/2015-11/12/c_1117122651.htm
中国でも発酵による醸造酒(黄酒)の歴史は古く、新石器時代に遡りますが、アルコール度数のより高い蒸留酒(白酒)の製造については比較的新しく、14世紀の元代の記録が最古と思われてきました。ところが今回の「蒸留器」の発見で、1000年以上遡る可能性が出てきたわけです。

などといったところが挙げられています。




始皇帝と大兵馬俑展メモ

http://heibayou.jp/
https://twitter.com/heibayou2015
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1732
http://www.museum.or.jp/modules/topNews/index.php?page=article&storyid=3489

「立射俑」「将軍俑」「軍吏俑」「跪射俑」「馬丁俑」「雑技俑」あたりは、実物が来るようですね。
「銅車馬」は複製です。
編鐘や短剣はともかく、水道管とか重りとか、変なものも来るようです。
『キングダム』の世界といいますか、秦代の風俗や当時を生きた人々の息遣いを感じられる展示になるといいですね。

東京国立博物館(東京) 2015年10月27日(火)−2016年2月21日(日)
九州国立博物館(福岡) 2016年3月15日(火)−2016年6月12日(日)
国立国際美術館(大阪) 2016年7月5日(火)−2016年10月2日(日)

入門秦の始皇帝と兵馬俑 (洋泉社MOOK)

入門秦の始皇帝と兵馬俑 (洋泉社MOOK)

始皇帝陵と兵馬俑 (講談社学術文庫)

始皇帝陵と兵馬俑 (講談社学術文庫)

秦・始皇帝陵の謎 (講談社現代新書)

秦・始皇帝陵の謎 (講談社現代新書)

『仙術士李白』

葉明軒『仙術士李白』(角川コミックス・エース)が出ていました。台湾角川の電子雑誌『FORCE原力誌』で連載中の葉明軒『大仙術士李白』の日本語版です。
ちなみにComicWalkerで最新話が読めたりします。
http://comic-walker.com/contents/detail/KDCW_TW01000001010000_68/

仙術士の設定は、葉明軒の独創によるものですが、登場人物たちは李白の伝記や盛唐の実在の人物たちをわりかしなぞって作られています。
主人公の李白は、言わずと知れた詩仙・酒仙のあの人です。作中15歳、若いです。水面に映る月に溺れることは当面ないでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E7%99%BD
師匠の焦煉師は、李白の「贈嵩山焦煉師」の詩で知られる嵩山の女道士です。「其年貌可稱五六十」…には、漫画では見えませんね。南朝斉・梁のころに生まれたという妖……あ、いえ、何でもありません;;;
http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/68305580.html
呉指南は李白の四川時代の友人で、のちに李白とともに楚地を遊歴することとなります。
http://cogito.jp.net/tanaka/sanbun/rihaku03.html
司馬承禎は天台山の道士で、玄宗に召し出されて尊敬を受けた人物です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E6%89%BF%E7%A6%8E
呉道子は呉道玄のことで、盛唐の画家として知られる人です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E9%81%93%E7%8E%84
東嚴子こと趙蕤は、字を大賓、あるいは雲卿といい、盛唐の術数家です。李白とともに「蜀中二傑」と併称された人物でもあります。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%B5%E8%95%A4
王維は盛唐の詩人として有名な人で、李白と同年の説もありますね。若くして進士に及第して、唐の官界に入った人でもあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%B6%AD
李林甫は玄宗朝の宰相にのぼる人物ですが、作中のタイムラインではまだそこまで出世していないと思われます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%9E%97%E7%94%AB
最後に登場した杜甫、字は子美は、詩聖と呼ばれるこれまた有名な盛唐の詩人ですが、女子でも男の娘でもないと思われます;;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9C%E7%94%AB

さて、今回出版された日本語版は巻数が打たれていませんが、はたして続巻が出るでありましょうか。そこからまずは心配ですが、美少年?と師匠のボディに騙されて、多くの読者の手に取られれば、続巻刊行とあいなるかもしれません。期待して待ちましょう。

昌平君「熊啓」説

 秦の始皇帝に仕え、後に楚王となった昌平君の事跡はたいしたことは分かっていません。そもそも「昌平君」というのも封号であって、本名も知られていないのです。まずは司馬遷史記』秦始皇本紀第六の記述から見ていきます。
「(九年四月)長信侯毐作亂而覺,矯王御璽及太后璽以發縣卒及衞卒、官騎、戎翟君公、舍人,將欲攻蘄年宮為亂。王知之,令相國、昌平君、昌文君發卒攻毐。」
 昌平君は呂不韋や昌文君らとともに嫪毐の乱鎮圧に出兵します(前238年)。
「(二十一年)新鄭反。昌平君徙於郢。」
 なぜか新鄭の乱のときに、昌平君は楚の都の郢に亡命しています(前226年)。
「二十三年,秦王復召王翦,彊起之,使將擊荊。取陳以南至平輿,虜荊王。秦王游至郢陳。荊將項燕立昌平君為荊王,反秦於淮南。」
 秦の王翦が楚を討って楚王負芻を捕らえると、楚将の項燕(ご存じ項羽の祖父さんです)が昌平君を擁立して淮南で秦に対する抵抗を続けます(前224年)。
「二十四年,王翦、蒙武攻荊,破荊軍,昌平君死,項燕遂自殺。」
 秦将の王翦と蒙武が楚軍を破ると、昌平君は死に、項燕は自殺してしまうのです(前223年)。

 これだけなら、なぜ昌平君が秦から楚に移り、項燕に立てられることになったのか、さっぱり分かりませんが、司馬貞『史記索隠』を見ると、事情が少しだけクリアになります。
「昌平君,楚之公子,立以為相,後徙於郢,項燕立為荊王,史失其名。昌文君名亦不知也。」
 昌平君は楚の公子の出自で、秦の相となったが、後に郢に移って、項燕により楚王に立てられたと言っています。
「按,楚捍有母弟猶,猶有庶兄負芻及昌平君,是楚君完非無子,而上文云考烈王無子,誤也。」
 昌平君は楚の考烈王の子であり、楚王負芻とは兄弟であるというのです。

 確度はともかく、だいたい分かっているのは、ここまでなんですよね。そこで今日の本題の李開元説です。ちなみに李開元氏は岡山の就実大学の教授さんなので、日本とも縁のある人です。

輔佐秦始皇統一天下的丞相是誰?(李開元的博客)
http://likaiyuanbk.blog.163.com/blog/static/127027590201011804947874/
《秦始皇的秘密》試讀:銅戈的秘密
https://book.douban.com/reading/10687339/

 1982年に発見された「十七年丞相啓状戈」という秦代の銅戈があるのですが、その銘文中の「丞相啓」が昌平君だと李開元氏は主張されているんですね。な、なんだってー!李開元説が正しければ、楚の王室の姓は芈、氏は熊なので、昌平君の氏名は「熊啓」と呼ぶべきことになります。
 このほかにも李開元氏は、昌平君が考烈王の咸陽人質時代の前271年生まれであるとか、嫪毐の乱のときに御史大夫であったとか、独自の主張をなさっております。