キトラ古墳天文図メモ

明日香村のキトラ古墳石室の天井に描かれていた天文図が、古代中国での観測に基づいていたとする研究について報道がありました。
キトラ古墳:天文図は紀元前後中国で観測された星の可能性(毎日)
http://mainichi.jp/select/news/20150716k0000m040084000c.html

 星の位置は年々変化しており、中村元教授は天文図に描かれた20個以上の星宿(せいしゅく)(星座)の位置から年代を推測。その結果、紀元前1世紀半ばごろの観測と判断した。紀元前の星の位置を記録したとされる古代中国の「石氏星経(せきしせいきょう)」とも整合したという。

 一方、天文図には北極星の周囲にあり地平線に沈まない星の範囲を示す円が描かれている。相馬助教は円や星の位置関係などから、紀元後4世紀に北緯約34度地点で観測したと結論付けた。この緯度には古代中国の都として栄えた洛陽や長安(現西安)が位置する。

キトラ古墳 天文図は数百年前の星空か(NHK
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150715/k10010152011000.html

このうち、国立天文台の相馬充助教は、5つの星の位置と、年代によって僅かに変わる地球の自転軸の傾きを照らし合わせ、西暦400年ごろに観測された星空ではないかと推測しました。
また、国立天文台に勤務していた中村士さんは、25の星の位置を基に分析し、紀元前80年ごろに観測されたのではないかと推測しました。
2人が指摘した時期には違いがありますが、いずれもキトラ古墳が造られた数百年前に観測された星空の可能性があるということです。
一方、観測された場所について、相馬助教は「北緯34度付近」と推測し、当時の技術水準などから古代中国の主要都市だった可能性が高いと指摘しています。

キトラ古墳天文図、4世紀頃の長安や洛陽の空か(読売)
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20150716-OYO1T50001.html

 星の位置は年々変化しており、相馬助教は、天文図に描かれた主な九つの星と、地球の自転軸の傾きなどから計算した各年代の正確な位置を比較。4世紀との誤差が最も小さく、観測緯度を計算すると北緯約34度になった。この付近には長安や洛陽があり、相馬助教は「長安や洛陽での観測をもとに作られた天文図が伝えられ、壁画の元になった可能性がある」と話す。

 この日は国立天文台OBの中村士・元帝京平成大教授(天文学史)の解析結果も明らかにされた。中村元教授は、二十八宿の基準となる星の位置を統計学の手法を用いて調べ、紀元前1世紀中頃の観測と推測。観測緯度は分析していない。

 以前、宮島一彦・元同志社大教授らが解析した際には観測緯度が平壌やソウルに近い37・5度前後の可能性が高いとされており、意見が分かれている。

キトラ天文図、描いたのは古代中国の夜空?(朝日)
http://www.asahi.com/articles/ASH7F5RZJH7FPOMB01R.html

 今回、文化庁と奈良文化財研究所が、相馬充(みつる)・国立天文台助教(位置天文学)と中村士(つこう)・大東文化大東洋研究所兼任研究員(現代天文学)と共同研究。2人は個別に、精密なデジタル画像に基づいて原図の観測地・年代を分析。観測地は北緯34度付近の長安(ちょうあん、現西安市)や洛陽(らくよう、現洛陽市)などの可能性が高いことが判明した。

 一方、観測年代については統計学的な分析に使った星の数や種類の違いから、相馬氏が「紀元後240〜同520年ごろ(魏晋南北朝)」、中村氏は「紀元前120〜同40年ごろ(前漢)」と分かれたものの、いずれも古墳造営の数百年前とわかった。

 原図についてはこれまで、宮島一彦・元同志社大教授(東アジア天文学史)が修理のためにはぎ取られる前の写真を元に、「紀元前65年に現在の朝鮮半島平壌かソウル周辺から見た空」との説を唱えていた。

中村元教授」と書かれると、仏教学者の人を思い出すので、やめて下さい(笑)…というのはともかく。相馬説が魏晋南北朝説、中村説が前漢説、長安か洛陽で観測された可能性が高いという両説。相馬説の数字はどこまで厳密化できるのかにもよりますが、五胡末期の長安説として取ったほうが政治史的には納得しやすいような気もします。

ちなみに1999年の宮島一彦論文は次のように言っています。
宮島一彦「日本の古星図と東アジアの天文学
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48530/1/82_45.pdf

キトラのばあい,外規の大きさには問題があるので内規によって推定すると,コンピューター処理画像にも歪みが残っているので多少の誤差は伴うが,38.4度程度となった。コンパスで描くときの誤差も少しはあったであろうがそれほど大きくないと考えられる。これは427年以降高句麗の都となった平壌の緯度39.0度に近い。日本の飛鳥(34.5度)や中国の長安(34.2度)・洛陽(34.6度)などの緯度は該当しない。北魏が501年の洛陽遷都前に都していた平城(現・大同の東)は40.1度であるが,可能性は薄いと思う。
ところで,星の赤経および去極度は年々変化するから,もし星図の星の位置がある程度正確に描かれていれば,それぞれの年に対する理論位置とキトラの図に描かれた位置を,全体としてずれが最も小さくなるように重ね合わせたとき,残差(理論位置と図に描かれた位置の差)の分散(平均自乗誤差)が最も小さくなるような年が原図の準拠した位置データの観測年代である可能性が強い。今回用いた手順では去極度よりは赤経の平均自乗誤差の結果によるべきものと判断し,これが最小となる年として紀元前65年という数字を得た。もちろん使えるデータが少ないうえ,図の南西部の星に偏っており,また,どれとどの星を使うかでこの値はかなり変動するし,画像からの読み取り誤差にも左右される。それにそもそもキトラ天文図の星の位置にはかなり大きな誤差があるから,この結果はごく大まかな目安としかいえない。
もし円の中心が作図の際の座標原点(天の北極)に正しく一致して描かれたとすれば,図に実際描かれている位置と理論位置との比較から統計的に求めた図の原点が実際の円の中心と一致する年を観測年代と考えることができる。しかし統計上の作図の原点は実際の円の中心と一致せず,最も近づくのは紀元後400年代後半となる。2点が一致しないのは統計に用いたデータの片寄りのせいとも考えられるが,円を描くとき中心が正しい位置からずれていた可能性があるので,この年代を採用するわけにはいかない(一致してもまだ確かとはいえない)。

中国の星図長安・洛陽などの緯度に対して作られたから,内規の大きさから求めた緯度がそれらと一致しないということはキトラ天文図の原図の使用緯度は中国ではなく,高句麗だということである。しかし,上の推定観測年代に拠るならば図のもとになっている位置データは高句麗で観測されたものとはいえない。いくつかの分析結果を同時に満たす解釈としては,やや苦しいが,中国で作られた星図が,観測されたデータが後に高句麗に伝わり,それをもとにして高句麗で内規・外規の大きさを自国の緯度に合わせて描いた天文図が自国で使うために作られた,ということになる。ちなみに『石氏星経』の星のカタログの観測年代は薮内清・前山保勝らによって紀元前70年頃と推定されている。

「501年の洛陽遷都」(いや、493年だから!)というのは、思いっきりツッコミたいところです(笑)。しかし宮島説は紀元前に中国で作られた星図を5世紀後半の高句麗平壌に合うように修正したとする説なので、今回の報道にもやや誤解がある模様なのでした。

星の古記録 (岩波新書)

星の古記録 (岩波新書)

東洋天文学史 (サイエンス・パレット)

東洋天文学史 (サイエンス・パレット)

アメリカの甲骨文字

Ancient Chinese script may prove Asians discovered America 3,300 years ago(Daily Mail Online)
http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-3152556/

イギリス『デイリー・メイル』紙による面白ニュース。アメリカニューメキシコ州アルバカーキのペトログライフ国定公園で3300年前の中国古代文字発見とのこと。そう主張しているのは、イリノイ州の元化学者でアマチュア碑文研究者のジョン・ラスカンプ(John Ruskamp)氏。

ニューメキシコ州カリフォルニア州オクラホマ州ユタ州アリゾナ州ネバダ州および米国周辺の各地で、古代中国の字形と合致する84の象形文字を識別したと、ラスカンプ氏は主張しています。

中国古代の文字とは関係なさそうな図象が混じっていても、そこは無視して文字と読める部分を拾っていく謙虚な姿勢。とても真似できません。「3rd Shang king Da Jia」って、どうやら殷の太甲のことらしいです。新大陸に知られる殷王、すごいですねえ(棒)。中国古代の文字って、横書きだったり、枠で囲うこともあったみたいです。知らなかった!

ラスカンプ氏は2012年にこんな本を出しているので、今年の新顔というわけではないようです。
http://www.amazon.com/Asiatic-Echoes-Identification-Pictograms-American/dp/1468186590
というか、『デイリー・メイル』紙にネタとして拾われるまで、ほぼ無視されていたのでしょうな。

「向」の読みについて

またぞろ『キングダム』をタネに話を広げてみます。
宮女キャラに「向」というのがおりますね。「こう」と読まれているのは、ご存じのとおりです。

漢和辞典を引けば分かりますが、「向」の読みは、呉音が「コウ」で、漢音が「キョウ」です。
中国の人名の読みは基本的に漢音を取りますので、これは「きょう」と読むべきでしょう。
たとえば前漢末に「劉向」という人物がいるのですが、これは「りゅうきょう」と読みます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%90%91

さて、少し不思議なことがありまして、三国の蜀漢に「向寵」という人物がいます。この人はなぜか「しょうちょう」と読みます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%91%E5%AF%B5
康煕字典』の「向」の項は、『廣韻』『集韻』『韻會』『正韻』を引いて、「式亮切,音餉」という音を紹介しています。「式」(ショク)と「亮」(リョウ)の反切、つまるところ「ショウ」と読む場合があるのです。また胡三省の『資治通鑑注』は「向,式亮翻,姓也」と言っています。どうやら姓の場合は「ショウ」と読むらしいのです。
北宋の向太后なども、「しょうたいこう」と読んでますね。
https://kotobank.jp/word/%E5%90%91%E5%A4%AA%E5%90%8E-79490
ちなみに地名や国名(周代の諸侯にあったらしい)の「向」も、「ショウ」と読みます。「向潭鉄路」は「しょうたんてつろ」と読むのです。

「向かう」系が「コウ/キョウ」、固有名詞が「ショウ」と、分けられればいいのですが、そうスッパリともいかないあたり、漢字の音は難しいなあと、つくづく思う次第です。

「王子に譲位」

ヒストリエ』、言葉にできない(ヤマカム
http://yamakamu.com/archives/4399196.html

ここの解釈が正しければ、例のマケドニア将棋の「王子に譲位」とかいうルールが伏線として機能するわけだな。
読んでるときには全く気づかないが、後になって振り返るととても分かりやすいというのが、伏線の理想型ではある。

梁昭明太子墓

2012年から南京市博物館考古隊の手で発掘が行われていた南京市栖霞区燕子磯鎮太平村の獅子衝南朝陵墓ですが、これがどうも梁昭明太子墓だったようです。昭明太子は梁の武帝の長男で、『文選』の編者として知られている人です。
陵墓からは「普通七年」、「中大通貳年五月廿七」といった南朝梁の年号の入った磚(レンガ)が出土しており、陳文帝永寧陵説が否定されて、昭明太子墓説が浮上したという経緯のようです。

南京發現梁昭明太子蕭統陵墓 其中有磚拼壁画(中国社会科学网)
http://www.cssn.cn/kgx/kgdt/201504/t20150427_1602852.shtml
栖霞南朝陵墓確認為梁昭明太子墓 曾編“昭明文選”(中国社会科学网)
http://sub.cssn.cn/kgx/kgdt/201505/t20150522_1988283.shtml

以前、藤井康隆先生のブログでも、昭明太子墓説は紹介されておりましたが、これが当たりだったということですね。
南京獅子沖南朝陵墓の調査動向(中国江南の扉)
http://fkoryuliuchao.blog.so-net.ne.jp/2013-06-18
南朝陳文帝陳蒨永寧陵」の調査(中国江南の扉)
http://fkoryuliuchao.blog.so-net.ne.jp/2013-03-16

「子貴母死」と「立子殺母」と

中国の南北朝時代北魏には、君主の後嗣となる嫡子が立てられると、その生母を殺害する「子貴母死」という制度がありました。『春秋公羊伝』にみえる「子以母貴、母以子貴」をもじって作られた史称ですが、北魏の特異な制度を端的に表現しています。また別の言葉では、「立子殺母」ともいいます。
その犠牲者としては、
1.道武宣穆皇后劉氏(明元帝の生母)
「太祖末年,后以舊法薨」(『魏書』皇后伝)
「(天賜)六年七月,夫人劉氏薨,後諡為宣穆皇后」(『魏書』天象志一)
2.明元密皇后杜氏(太武帝の生母)
「泰常五年薨」(『魏書』皇后伝)
「五年六月丁卯,貴嬪杜氏薨,後諡密皇后」(『魏書』天象志一)
3.太武敬哀皇后賀氏(景穆太子の生母)
「神䴥元年薨」(『魏書』皇后伝)
4.景穆恭皇后郁久閭氏(文成帝の生母)
「世祖末年薨」(『魏書』皇后伝)
5.文成元皇后李氏(献文帝の生母)
「太安二年,太后令依故事,令后具條記在南兄弟及引所結宗兄洪之,悉以付託。臨訣,每一稱兄弟,輒拊胸慟泣, 遂薨」(『魏書』皇后伝)
6.献文思皇后李氏(孝文帝の生母)
「皇興三年薨」(『魏書』皇后伝)
「(皇興)三年,夫人李氏薨,後諡思皇后」(『魏書』天象志一)
7.孝文貞皇后林氏(廃太子元恂の生母)
「以恂將為儲貳,太和七年后依舊制薨」(『魏書』皇后伝)
8.孝文昭皇后高氏(宣武帝の生母)
「后自代如洛陽,暴薨於汲郡之共縣」(『魏書』皇后伝)
といった人々が挙げられます。これも最後の孝文昭皇后高氏とかは、わりと怪しくて、宣武帝が皇太子に立てられる前に不審死しているので、また別の理由が憶測されていたりします。

さて、宣武霊皇后胡氏(孝明帝の生母)の代になって、
「而椒掖之中,以國舊制,相與祈祝,皆願生諸王、公主,不願生太子。唯后每謂夫人等言,天子豈可獨無兒子,何緣畏一身之死而令皇家不育冢嫡乎。及肅宗在孕,同列猶以故事相恐,勸為諸計。后固意確然,幽夜獨誓云,但使所懷是男,次第當長子,子生身死,所不辭也。既誕肅宗,進為充華嬪。先是,世宗頻喪皇子,自以春秋長矣,深加慎護。為擇乳保,皆取良家宜子者。養於別宮,皇后及充華嬪皆莫得而撫視焉及。肅宗踐阼,尊后為皇太妃,後尊為皇太后。臨朝聽政,猶稱殿下,下令行事」(『魏書』皇后伝)
と、その豪腕でこの制度を覆してしまいました。以後は「子貴母死」の例は見られなくなります。

この「子貴母死」制度のことは、正史中では「舊法」(旧法)とか「故事」とか「舊制」(旧制)とか呼ばれているのですが、その解釈は大きく二つに分かれています。
ひとつには、北魏の前身である鮮卑拓跋部あるいは代国以来の旧制度であるとする解釈です。しかしながら道武帝より以前の拓跋首長の妻や代国の王妃にこの制度が行われていたことが確認できないのです。
もうひとつには、漢の武帝を起源とする「立子殺母制」の継承とみなす解釈です。漢の武帝外戚の専横を防ぐために太子劉弗陵(のちの昭帝)を生んだ鉤弋夫人(趙婕妤)を殺害したという話があるのです。
まず鉤弋夫人の死因については、『漢書外戚伝に「有過見譴,以憂死」とされ、殺害されたとは言われていません。しかし『史記外戚世家の褚少孫の補作部分に「後數日,帝譴責鉤弋夫人。夫人脫簪珥叩頭。帝曰,引持去,送掖庭獄。夫人還顧。帝曰,趣行,女不得活。夫人死雲陽宮」とあり、こちらでは殺害が示唆されているのです。続く節に「左右對曰,人言且立其子,何去其母乎。帝曰,然。是非兒曹愚人所知也。往古國家所以亂也,由主少母壯也。女主獨居驕蹇,淫亂自恣,莫能禁也。女不聞呂后邪」とあって、武帝呂后の故事を持ち出して殺害を正当化しています。
もし鉤弋夫人が武帝に殺害されたのが本当のことだとしても、以降の「立子殺母」の例が北魏まで見られません。武帝以後に子の皇帝の治世を生きて見届けた生母の皇太后は何人もいるのです。後に続かないものを制度と呼ぶのは難しいところです。

漢の武帝が鉤弋夫人を殺した理由というのもそもそも言い訳くさいのですが、北魏の道武帝が夫人劉氏を殺害した理由も実は「舊法」などではなく、外聞をはばかる家庭の事情だったのではないでしょうか。それを「舊法」と取り繕ってしまったために、北魏の宮廷で世代を重ねて継承されてしまったというあたりが実際ではないかと思われます。