「避諱」とは、恥となる物事を隠すこと?

「避諱」についてGoogle検索をかけると、奇妙な言説がわんさか出てきたので、取りあげておくこととします。

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-449.html
辞典を引いてみると、“諱”とは「隠す」という意味である。
“避諱”とは、恥となる物事を隠すことだ。
自分の恥ではなくて他人の恥をである。  

http://kotobukibune.at.webry.info/200904/article_3.html
“避諱”とは、恥となる物事を隠すこと。それも自分の恥ではなくて他人の恥を隠すことを言う。

http://blogs.yahoo.co.jp/atcmdk/55022675.html
「避諱(ひき)」とは,日本語の忌避(きひ)(嫌がって避けること)と同義語です。

これらは林思雲というかたの「従中国的民族性談中日関係―中国人的避諱観念与謊言」という文章が元であるようです。
http://toueironsetsu.web.fc2.com/Column/2005/c20050328.htm
林思雲氏の中国文化論ですが、残念ながらこれはとてもおかしな議論です。「諱」の字が動詞的に用いられる場合、「隠す」の意味をもつことはたしかにあるのですが、「避諱」の「諱」の場合は名詞的な用法で「いみな(忌み名)」の意味です。
「避諱」についてはWikipedia記事でも基本のことが解説されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BF%E8%AB%B1
「避諱」には、そのまま「忌み名を避ける」という意味で、歴史的経緯もある慣習なのですが、「恥を隠す」という意味はありません。どちらかというと、真の名前を秘密にする『ゲド戦記』原作のイメージが近いです。

林思雲氏は『論語子路篇の「父は子のために隠し、子は父のために隠す」という孔子がなしたとされる発言を取りあげているのですが、これを「避諱」と結びつける説は林思雲氏の独創になるものです。子路篇の孔子のスタンスについては、もちろん批判もありうると思いますが、要は「大義親を滅す」な姿勢より親族の罪をかばうほうを選ぶという孝悌重視の孔子ポジショントークなわけです。そもそも『論語子路篇の当該原文に「避」字も「諱」字も使われず、「隠」字が使われている以上、ここの節を(間違った解釈の)「避諱」と結びつける林思雲氏の議論は、強引に過ぎます。

次に林思雲氏は『春秋穀梁伝』成公九年の「尊者の為には恥を諱(かく)し、賢者の為には過(あやまち)を諱し、親者の為には疾(あしきこと)を諱す」を取りあげています。
「諱」が動詞的に「隠す」の意味で使われている好例ではあります。ただこれ前半部分が略されていまして、「晉欒書帥師伐鄭」(晋の欒書が師を帥いて鄭を伐つ)という『春秋』経原文に対して『穀梁伝』作者が「不言戰,以鄭伯也。為尊者諱恥,為賢者諱過,為親者諱疾」(戦と言わざるは、鄭伯を以てなり。尊者の為には恥を諱し、賢者の為には過ちを諱し、親者の為には疾を諱す)と注釈しているところです。「経で『伐』と言って『戰』と言わないのはどうしてだ?鄭伯のためだ。エラい人の恥やカシコい人の過ちやシタしい人の欠点は隠すものだ…」という微言解釈もいいところの解説ですし、孔子に擬せられる『春秋』作者が本当にそんなことを考えて本文を書いたのかどうかは分かりません。また拡張して中国特有の文化とみなすとやはり疑問です。他所の国でも悪習としてありそうな話です。

「避諱」は文化的なタブーの話であって、これを恣意的にフェイクやデマゴギーの話に拡張するのは、文化論として筋が悪すぎるかと思われます。