伍子胥神

趙翼『陔余叢考』巻三十五より

史記』によると、伍子胥が死ぬと、呉の人はこれを憐れんで、江上に祠を立て、胥山と名づけた。これが伍子胥の祭祀の始まりである。王充『論衡』によると、呉王が伍子胥を殺したとき、その遺体を大鍋で煮させて、革で作った袋につめて長江に投げ捨てさせた。伍子胥の霊は怒りうらんで、水を追い立てて波濤を起こし、人を溺れさせた。このため会稽・丹徒・大江・銭塘・浙江ではみな伍子胥の祠を立てた。『後漢書』によると、張禹が揚州刺史となり、長江を渡ろうとしたとき、部下の官吏が「長江には伍子胥の神がおられます。これは両漢の祀るところの伍廟です」と申し上げた。『呉志』によると、孫綝は神をあなどって大橋頭の伍子胥の廟を焼いてしまった。伍廟が焼けると世間の人は慢神のむくいがあろうと噂しあった。その当時の廟の祭祀のかがやかしさを知ることができる。『隋書』によると、高勱が楚州刺史となったとき、城北に伍子胥の廟があった。楚州の地の風俗は伍子胥神に対して敬虔で、祈る者は必ず牛と酒を捧げ、産業を破壊してしまうほどであった。このため高勱は厳しく禁じてやめさせた。六朝以後の伍廟のかがやかしさをまた知ることができる。『唐書』によると、狄仁傑は江南の淫祠千七百ヵ所を破壊させた。ただ夏の禹・呉の泰伯・季札・伍員の四祠は廃止しなかった。いま六朝に祀られていた神を調べると、みなすでに消えてしまっている。しかし伍子胥廟は唐以後もなお多くの祭祀があってあがめられている。(中略)『宋史』によると、馬亮が知杭州となったとき、長江が波立って氾濫したので、伍子胥の神威をみること長く、ますます明らかとなっている。馬亮が伍員祠に祈ると、翌日には水が引いて、河原の砂が数里にわたって横たわって出てきた。『元史』によると、大徳三年(1299)、また忠孝威恵顕聖王に加封された。

長江のたたり神としての伍子胥ですね。