林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』

林俊雄『興亡の世界史02 スキタイと匈奴 遊牧の文明』(講談社)読了。メモメモ。
はじめに
騎馬民族」を使わず、「騎馬遊牧民」のタームを使う理由〜近代的においのしみついた「民族」を避ける。
スキタイや匈奴は文字を持たず、文字記録はヘロドトス司馬遷に依っていることが多い。
ヘロドトス司馬遷遊牧民に対する偏見が少なかった。
第1章 騎馬遊牧民の誕生
モンゴルの古墳にみられるヘレクスル(積石塚)は草原の権力発生の指標。前9〜前7世紀。
前7600年ころ、肥沃な三日月地帯でヤギと羊の家畜化。前7000年ころ、牛と豚の家畜化。
ウクライナのデフレイカ遺跡の発見で、いっとき馬の騎乗を前4000年ころにさかのぼらせる説が流行したが、多くの疑問が提出される。
馬の騎乗は前三千年期末から前二千年期初めのメソポタミア。馬車はやや遅れて前2000年〜前1700年ころ。エジプト第十八王朝の終わり(前十四世紀後半)に銜を使った騎乗が認められる。
本格的な騎馬遊牧民の誕生は前9〜前8世紀。
第2章 スキタイの起源
ヘロドトスの語る三つの説。
1.大神ゼウスとボリュステヌス川の娘との間の末子の説。(外来神と土着神の婚姻)
2.ヘラクレスと蛇女エキドナとの間の末子の説。(第一の説と酷似)
3.スキタイはアジアの遊牧民であったが、アラクセス川を渡ってキンメリア地方に移り、そこにいたキンメリオイ(キンメリア人)を追い払ってかわりに住みついたとする説。(より現実的な外来説)
旧ソ連時代ではスキタイ土着発展説が有力だったが、南シベリア・トゥバのアルジャン遺跡の発見で外来説(内陸アジア起源説)が有力になりつつある。
キンメリオイとスキタイの西アジア侵入。キンメリオイは前695年、フリュギア王国のミダス王を自殺に追い込む。スキタイは前670〜60年代初めにはリュディア王国の都サルディスを一時占拠。
アッシリア史料の「ギミッラーヤ」はキンメリオイ、「イシュクザーヤ」はスキタイと推定。
カフカス黒海北岸の先スキタイ時代と初期スキタイ時代の遺物が、カフカス南部からアナトリアにかけてでも出土。先スキタイ時代の人々とスキタイがカフカス南部とアナトリアにやってきたことを示す。
第3章 動物文様と黄金の美術
スキタイ文化の三要素は、スキタイ風の「動物文様」と馬具と武器。
西アジアギリシアからの影響もみられる。
スキタイの黄金製品は、ロシアのシベリア進出以降、盗掘の横行で多くは失われた。
アルジャン2号墳の発見で、スキタイ美術の東方起源説は有利に。
後期スキタイ美術はギリシアからの影響が強く、グレコ=スキタイ美術と呼ぶ。
イラン高原に起こったアカイメネス朝と衝突した騎馬遊牧民サカは、おそらくスキタイと同一。
体を180度ひねった動物表現は、後期スキタイ美術に流行。
アルタイ北部のパジリク古墳は凍結古墳で保存状態良好。
グリフィンの伝播。
シルクロードの草原ルートは最も早く開かれた。
第4章 草原の古墳時代
スキタイの古墳の分布範囲の広さ。
王と王妃、殉死者、馬の埋葬。
トゥバのアルジャン1号・2号墳
カザフスタンのチクリタ5号墳(黄金古墳)
ベスシャトゥル大古墳。
ヘロドトスの語るスキタイの「王の葬儀」は、ほぼ正しいことが考古的に裏付けられた。
サウロマタイとアマゾン伝説。サルマタイの王墓。
第5章 モンゴル高原の新興勢力
史記匈奴列伝と『漢書匈奴伝。
葷粥=匈奴説は支持しがたい。
前四〜前三世紀の中国北方の騎馬遊牧民の文化は黒海沿岸のスキタイ文化やアルタイのパジリク文化とよく似ている。
東胡・匈奴月氏の角逐。月氏は河西回廊のみならず、モンゴル高原西部・新疆までときわめて広大だった。
冒頓の征服と月氏の西遷。
匈奴の冒頓と漢の劉邦の直接対決−平城の包囲。
匈奴と漢の和親条約−冒頓は侵寇を「少しやめた」。
老上単于・軍臣単于の時代も、和親と公主の降嫁、侵寇の繰り返し。
第6章 司馬遷の描く匈奴
単于の姓は『漢書』で攣鞮氏、『後漢書』で虚連題氏。攣鞮氏のほか、呼衍氏・蘭氏・須卜氏が高貴な氏族。
単于−左屠耆王(左賢王)−右屠耆王(右賢王)−左谷蠡王−右谷蠡王−左右大将−左右大都尉−左右大当戸−左右骨都侯。二十四長と数が合わない。十進法による軍制。
龍城と蹛林は祭祀か。
刑法は簡単で厳格。人口は「漢の一郡にあたらない」「戸口三十万」。実際は150万〜200万か。
匈奴に寝返った宦官中行説。
レヴィレート婚と実力主義
武帝の即位。月氏との同盟を求め、張騫を派遣。失敗したが、多くの西域情報を入手。
武帝のだまし討ち作戦の失敗。正攻法と混戦、匈奴の劣勢へ。
第7章 匈奴の衰退と分裂
漢と烏孫の同盟によって匈奴の右腕は絶たれる。
漢の使節団員の質は低く、山師のような連中や、無頼の徒が多かった。
匈奴の日逐王と僮僕都尉による西域統治。
李陵と李広利の投降。
呼韓邪単于と郅支単于の兄弟の争い。
新の王莽の時代、呼都而尸若鞮単于のもとで「匈奴の最後の黄金時代」。
匈奴の南北分裂。
第8章 考古学からみた匈奴時代
コズロフによるノヨン・オール古墳群の調査。方墳が多い。
ロシア・ブリャーチャ共和国のイヴァルガ遺跡の発掘により匈奴に農耕をおこなう定住民集落があったことが判明。
南シベリアのアバガン市郊外で発見された中国風館跡は李陵の宮殿説が唱えられたが、文字瓦から新代(8-23AD)のものと判明。
アフガニスタン北部ティリャ=テペ遺跡の発掘で中国の龍のモチーフが中央アジアに伝わっていたことが分かった。
第9章 フン族匈奴の後裔か?
おわりに

疲れたので、9章〜はまた今度。