大塚清恵論文と「弓月国」

Wikipedia2chの引用まであると評判の大塚清恵論文。
日本・イスラエル比較文化研究(2)―日本列島は誰が創った?―
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/9161/1/J08Otsuka.pdf
「秦(BC221 年〜 BC206 年)は、実はペルシャの植民地だったのである。」
国史畑から見ても、顎が落ちてしまいそうな記述がさらっと書かれてあったりします。

法隆寺五重塔は…送電塔の模型」だとか、
「ヨーロッパ、中東、インドにある尖塔のある城は、…スペースシャトルそっくり」だとか、
「台湾にある神塔も、…円筒形電波塔によく似ている」だとか、
「月着陸船が興(コウ、おき)、輿(ヨ、こし)、鼎(テイ、かなえ)、只(シ、ただ)という漢字によく似ている」だとか、
「音読みが『ユウ、ユ』と『ホウ、ホ』である字、由・夕・有・湯・油などや鵬・法・峰・保・穂・浦なども全て宇宙船(UFO)を表わすと思う。これは私の考えである」だとか、開いた口がふさがらないトンデモのオンパレードです。

世界の縮図のような形をしている日本は、大昔に世界の中心であったか、将来、世界の都となることが運命づけられている国なのだろう。God bless Japan.

いやはや何というべきか。そのあまりのぶっ飛んだ記述に、すでにネット上で出されているツッコミも多岐にわたっているようですが、あえてウチは地味めな「弓月国」からいってみようと思います。

秦氏家系図には秦の始皇帝が秦の祖ということになっているが、日本書紀によると弓月君(融通王)が秦氏の祖である。弓月君帰化した372年ごろ「弓月」という国がステップシルクロードが通過する中央アジア、現在のキルギスのすぐ北方に存在した。弓月国はアラム語を使用し、養蚕や絹織物技術に優れていた。興味深いことにヤマトゥという地やテングリ山という高い山があったという。ヤマトゥは「神の民」を意味する言葉で、この地名がヤマト(大和)になったのではないかと言われている。テンシャン山脈に属するテングリは天神を意味し、秦氏の拠点であった京都の愛宕山は天狗伝説で有名である。
弓月国は、もともと紀元前8世紀に北イスラエル王国からアッシリア人に連れ去られた十部族の中からガド族、ルベン族、マナセ族などが建てた国であると言われている。彼らは弓月国を建国する前は、黒海北岸のクリミヤ半島にしばらく住んでいたことがある。黒海北岸の平原には紀元前7 世紀からペルシャ遊牧民スキタイ族が住んでいた。スキタイ族は金属武器と馬具で武装した強力な騎馬軍団を組織し、紀元前6 世紀には、南ロシア、コーカサスを領域とする広大な騎馬民族国家を形成した。イスラエル人は交易などを通してスキタイ人と連合するようになり、スキタイ・サカ族としてシルクロード沿いの各地で植民、建国を行った。スキタイ文化の影響は、中央アジア、モンゴル、華北にまで及び、その結果、タタール突厥匈奴などの遊牧民族国家が生まれた。4〜5世紀に日本に渡来した集団の中に、このスキタイ・サカ族が含まれていたので、渡来人は卓越した産鉄、鉄剣製造技術を有していた。
また、弓月国は、650年頃に滅亡するまで景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)の拠点であった。

そもそも秦氏の先祖の「弓月君」と中央アジアの「弓月国」を結びつけることからして附会だと思うのですが、仮に百歩譲って関係があるとしましょう。まず大塚先生には「372年ごろ」弓月国が存在した根拠を教えてほしいですね。弓月国は唐代を扱った史料にしか出てこないはずです。『旧唐書』とか『新唐書』とかですね。永徽二年(651年)に梁建方や契苾何力が唐の弓月道総管になって阿史那賀魯を討ったとか、咸亨四年(673年)に弓月と疏勒の二国王が入朝して降を請うたとか、永淳初年(682年)に阿史那車簿が弓月城を包囲したとか、そのくらいの乏しい記述しかないはず。「ヤマトゥという地やテングリ山という高い山」も典拠不明ですし。「弓月国は、もともと紀元前8世紀に北イスラエル王国からアッシリア人に連れ去られた十部族の中からガド族、ルベン族、マナセ族などが建てた国であると言われている。彼らは弓月国を建国する前は、黒海北岸のクリミヤ半島にしばらく住んでいたことがある。」これもどこの史料から引いたのか。「弓月国は、650年頃に滅亡するまで景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)の拠点であった。」これも怪しいものです。

「弓月国」はおそらく西突厥の一部です。
http://www.tibet.cn/periodical/xzyj/2001/04/200706/t20070622_257896.htm
アラム語を使用」するわけがありませんし、景教より祆教(ゾロアスター教)との関係が深かったと推測されてます。イシク・クル湖の近辺、あるいはイリ河の源流あたりに居住していたと思われるので、「現在のキルギスのすぐ北方」ってところはまあいいですが。ただ弓月城遺跡は現在のイーニン県にあることにされているので、このへん多少ややこしいかもしれません。いずれにせよ6世紀以前のことがまるで分からない国と秦氏を結びつけるのは無理があるというものです。

始皇帝の死後、秦はすぐに漢民族に滅ぼされた。「秦人」は、中国よりさらに東の地に新天地を求めざるを得なくなった。
弓月国からステップ・シルクロードを東進しても、ペルシャから中国国内を横断するオアシス・シルクロードを進んでも、行き着く果ては朝鮮半島である。

ここにいたっては「弓月国」は紀元前からあったことになってしまいます。もういいから史料出せ!って話ですね。